ブログを作っては消すのやめろ

ゲームの記録とか、稀に読んだものとか用です。

20230209 『20代で得た知見』(※極めて重要な追記を冒頭に含む)

本を読んだ。

ちゃんと一冊読んだ。

何年ぶりだ。

 

記録によれば2年ぶりらしいぞ。その1個前は2年半ぶりだ。

よくやった。あんなにも生活がズタボロになったお前が、この1年と4ヶ月で生活立て直して、遂に本を読み終わることに成功した。

本当に、よくやった。

 

*最も重要な追記と言い訳

投稿した直後、フォロワーに著者の情報について物凄いことを教えられた。とりあえず買うのはやめよう。

ええ……元パクツイアカウントの中の人って……お前マジ……。それもあのアカウントかよ……。そんな古代兵器の記憶が牙を剥いてくるのか……。えぇ……。

いや……怖いよ……。マジで言い訳するけど、あんなアカウントの中の人が出版社に激推しされて大手を振ってベストセラー作家になってるなんて思わねえじゃん……。いやこれを会社が推すの完全にアウトだろ。仮にも出版社だろお前……。

読後感は一気に死んだが、それでも知らせてくれる人がいて本当にありがたかった…………。

 

著者の言葉遣いはエッセイストとして本物だと思う。ただの剽窃では絶対にこの本は書けない。まあ、あれだけ長い間剽窃を繰り返していたらもはや何がパクりで何が自分だったのかも分かんなくなって嫌でも本物になるんだろう。それにだいたいの芸事はそもそも真似事から始めるものだ。

これが(ほぼ)一人で書けるようになったのなら、人間が更生してはいけない道理はない。更生が許されなかったら、私のような人間のクズは色々やっていかれない。

だが、肝心の過去を清算した記録が見当たらない。

これまで本当にすみませんでした、自分で書くことを覚えたのでこれからはちゃんとします、その一言がどこにもない。

それどころか過去を知る人間を片っ端から無言で先行ブロックして歴史を抹消しようとしている事実ばかり見つかる。

だから、私はこの本を薦めない。

以下に続くのは存在しないし購入できない架空の本についての記録である。

 

……なんで2年ぶりに読んだ本でこんな目に遭うんだ……

私の人生、本当救えねえ……

 

 

今日の目標

本を読んだ。しかし何かを鑑賞してその感動を形にせずに眠ってしまうほど悲しいことはない。

もちろん言葉にしたくないくらい大事な感情だっていくつもある。それはこの本の中で繰り返し書かれるテーマでもある。だけど大抵の場合は無理にでも言葉にしてしまった方が良い。人間は、書かなかったことを忘れる。

忘れるから美しい、朦朧とするから美しい、微妙になるから美しい、微妙であるからこそ美しい。そういう領域は確実にあるが、今日はそれを踏み躙ってでも私は人生を取り戻さねばならない。

 

とはいえ時間はない。日記は大事だが大きな時間を割くことは出来ない。少なくとも今しばらくは。

そういうわけで今日は、読んでいる途中につけたメモのあれこれを雑多に並べて終わりにする。*がついた見出しは今最初から最後まで書いた。

 

この記事は本の感想でも販促でもなく、ただの私の日記なのかもしれない。

 

 

*この本について

エッセイ。ほとんどが1~2ページで終わる随筆集。300ページ弱ある。物凄い広さのテーマについて語られている。

しかし著者は極度のロマンチストで文体にどうにも癖があり、輪をかけて厄介なことに随筆というものはどうにかして上手いこと言って終わらなきゃならんみたいな病気があるように思う。そのせいか読んだ感想が「ハハッワロス」で終わってしまい頭に残らないものが少なくない。全体の半分くらいはそうだ。

 

でも、残りの半分は、そうはいかない。

 

一つ一つが読んで胸に刺さったり、感動したり、苛ついたりする。

その度に私は書かれているテーマについてあれこれと何かを思う。

長い長い時間をかけて、読むのに費やすのよりずっと長い時間をメモ書きに使ってしまう。

思考の流れは時として元々書かれていたこととは全く違う方向に行ったりする。不思議だ。それとも私が忘れていただけで、優れた読書体験とは本来的にそういうものだっただろうか。だとしたらこれは素晴らしい本なのだろう。

 

私はエッセイとか随筆とかいうものが優れている条件は、言葉が美しいか読後感が良いか内容が素晴らしいかのどれかだと思っていた。新しい領域を見つけた。意味もなく人の心に残り、考えることを強制させてしまうエッセイもこの世にはあるのだ。

 

 

最初にした走り書き

私は、この本が大好きだ。
これは1〜3ページのエッセイ集だ。心にグッと来ることと、全然響かないことと、それはちょっと生き方が根本的に違うなと思うことまで、抱く感想は色々ある。
でも、その全てが愛おしい。
私は、この本の著者と別の人間であれてよかった。
私は、これまで観て、これから観るあらゆる作品の作者と違う人間であれてよかった。
私は、孤独でよかった。
自分が他の誰にもなれないことを愛せるようになる。
これは、きっとそういう本だ。

内容の運びや、特に一行や一言でひっくり返すスキルが凄い。お上手。言葉遣いも、本当に大好きだ。

個人的には凄く面白かった。でも、私の日記なんか開いてるような人には勧めづらい。
というのも、この手の随筆は、内容を味わうのと同じくらい文体や言葉選びや著者の世界観を味わうことにも重きが置かれると思うのだが、そうなると真っ先に浮かぶ嶽本野ばらと著者の思想が真逆なのだ。私は嶽本野ばらを敬愛しているから、こんなページ開いてる人は絶対著者とは相容れないと思う。
以下全体的に嶽本野ばらを念頭に置きながらざっくばらんに書く。

「自分は美しくて、だからダメ人間だ」という諦観が基盤にある人間と、「自分はダメ人間で、だから美しい」という村上春樹的な人間は水と油くらい相性が悪い。この本は前者が好むような文体を纏いながら思想が後者なので読んでいて引っかかることが多い。
また、美しさと恋、愛、性愛などについての価値観についても私の知るロマンチストとは綺麗に真逆の世界を映しているように感じる。たとえば嶽本野ばらの作品には、「美しさがあって、性別や関係性はそのあと」という思想があるように思う。実際、氏の小説には男性視点のものと女性視点のものがあるが、美しさの方向性は全く同じところを目指しており、さながら同一人物が語り方を変えただけのような印象を受ける。それに対して本書は、「『オトコとオンナ』という枠組みがあって、その中に美しさが付随する」とでも表現すべき価値観が前提にあると感じる。私に限らず関係性ヤクザには辛いだろう。
ただしこれは、裏を返せば純粋なヘテロセクシュアルな人間には垂涎の随筆であることも意味する。また、必ずしも特定の性別や嗜好や関係性に固有の話をしているわけでもないので、私のようなバイセクシュアルな人間にとっても共感したり身につまされることは非常に多い。価値観の違いはあれど、全体的に面白く読めた。それでも、確かにそこにある些細で棘のような違和感に目を瞑れるかどうかはやっぱり人によるところが大きいと思う。
そして、恋愛以外の様々なことについては枠組みに囚われず純粋な美しさを目指していると感じる。そうでもないとこんな文体纏わない。


少しネガティブな面から入ってしまったけれど、著者の人格をだいたい掴んでしまえば、読んでいて全体的に身につまされることが多い。「とりあえず適当なことを最後に一行付け加えておけばオシャレだろう」みたいな感じはするので、各節一行だけ読み飛ばす必要はあるけれど。
「普通に生きられないな」と思っている人は本当に読んだらいいと思う。

著者の人格が好きだ。70番より、「だからもう私は小説や邦画の悪口をあまり言えない。もちろん面白くないものは面白くないと黙殺するにしても、面白かったものは大いに面白かったと叫ぶことにしようと心に誓った。作り手の心が人知れず死んでしまわぬように」。84番より、「この世にはわざわざ嫌いなアーティストの五分くらいのPVを通信量を消費してまで開いて、悪評価を押して旅立っていく、ご多忙で滑稽な方がいる」。文体や言葉遣いはひどく飄々としているけれど創作や生き様についてこの方は本当に誠実だ(こういうことを言うと、そういう二面性が所謂「モテる」だから演じているだけなのですとかこの著者はたぶん言い出すんだろうが)。
たくさんたくさんこの本について書いているし、良いことばかりではないのだけれど、読んでいて何も思わない作品というのは書こうと思うようなことも特にないので、文章の長さの分なんだかんだ全体で賛辞ということにしたい。
話が逸れるけど84番は続きの部分の方が好きだ。色々病んでtwitterも鍵がかかりっぱなしだけど、開いて一からやり直しても良いだろうかと思った。84番に何が書いてあったのかは、まあ興味があれば買って読んでほしい。せめてもの販促。

*読み終わった後の追記

読み終わってみると別にそこまで人間性が合わないわけでもない。実のところこの著者は普通に嶽本野ばらと同じくらいやけっぱちな人間だと思う。自分のことを根っからダメ人間だと思いながら生きている。その埋め合わせというか、何か裏返しのようなものとして美しさを求めている感じがする。自分とはスタート地点が違うタイプのダメ人間。それを感じ取るまでに少し時間がかかった。半分くらい読む頃には著者のことがすっかり好きになっていた。

それでも、どんなに好きな本でもこのめちゃくちゃに鼻にかかった文体を含めて著者のことを好きになれるまで読めとはやっぱり他人に言えない。いいとこ30ページ読んでみて、文体はともかく内容や言葉遣いは良いな、と思えなかったらそれでもうバイバイだろう。

 

8: 「一千万についての四通りの考え方」

感動する人は、感動がお金になると思うようになる、みたいなくだりがあったな

春を売ったり玉の輿を狙う人間は若さがお金だと、

長時間労働する人は時間がお金だと、

中抜きをする人は情報の格差とコネがお金だと、

そういうくだり

*追記

本当にメモ書きだ。メモ書きだからこれでいいんだけど。

私は病気で労働出来る身じゃないが(ところで自分が一生障害者の身であることを受け入れるのには結構時間がかかった)、それはそれとして、一千万を得るためにどうするかと聞かれて一千万売れるようなものを作ると考える人は『人は自分が救われたと感じるものにお金を払う』『お金の本質とは感謝である』という思想を持ちがちだと、それは凄くそう思うんだ。言うまでもなく世の中そんな素晴らしい仕事はほとんどないけれど。

私はうつ病患者だから、救われるためにゲームを、漫画を、本を、CDを買う。映画の7日用視聴権を買う。それが終わった後に感謝させてくれるものであると祈りながら。

だからどうってことは何も無いのだけど。意味もなく心に残った。

 

番号不明

林修先生の「正しい場所で正しく行われた努力は実を結ぶ」と、
「好きに勝る努力はなし」を対比させているところ。

その2つは対比させられるようなものじゃなくて、

正しい場所で正しく行われた努力だから、それを好きになれるんじゃないだろうか。

 

136:「そして彼は沈黙する」

「苛々して一言何か言いたくなってしまった時は、同じようにそのニュースを見て沈黙している無数の誰かを想像する」みたいな話。
炎上したニュースを見たときには思うようにしたい。
どうでもいいけどタイトルの「彼」は、話をしてくれた友人だけじゃなくて昔の英語の一般人称のheをかけてるのかな。そうだったらお洒落なタイトルね。

 

ゴミみたいなニュースにみんな沈黙していることを思えば黙っていられるようにさ、
面白くないゲームプレイしちゃったときは、「誰がどう見てもクソゲーだな」って思って黙るんだよ。思ってはいるけど口には出さない、無数のプレイヤーのことを思うんだよ。
たくさんの人が、頑張って口が逸るのを抑えている。そう思えば、自分一人くらいの口なら塞いでいられる。

 

137

「歳を取ると旅とかバッドエンドとか無理になりますよね」的な話。
私はまだバッドエンド好きだからまだ歳取ってないのかもね。
いや歳は取ってるんだけど、つまり単に治らないかもね。
「面白いことほどめんどくさい」「めんどくさいことほど面白い」
これはいい言葉だよね。面倒なんだよな、面白いことって。人生を豊かにするものって。豊かなことは面倒。そう思うと重い腰も上がりやすくなる。

 

113

うつ病患者の脳ハック、神的存在、物語への回収を語っている
この人は私と同じところまで精神病が落ちている。

*追記

2015年06月時点に恐らく私が体験した中で一番古い記録があった。(リンクはもう一方のブログに飛びます)

 

私は脳が見せる幻影のカミサマについて今ではこういう風に話をする。

たとえば、リンゴの木の並木道に、リンゴがたくさん落ちていたとする。

それもばらばらっと、特に規則性もなく乱雑に落ちていたとする。

それを見たらあなたはどう思うだろうか。

多分周りの木から落ちただけだと思って何も気にしないだろう。

だけどもしも、道端に落ちるリンゴが一直線に、道端のずっと向こうまで綺麗に整列されていたらどうか。

絶対にそれを並べた誰かがいるはずだと感じるだろう。あるいは、何かしら原因があってそうなったはずだと思うだろう。

本当は途方もない偶然でただそういう風にリンゴが落ちただけかもしれないのに、私達の頭は何かしらの規則性や因果を見出すと嫌でも偶然とは考えられなくなる。

 

不幸も同じだ。

私達は自分の人生に途方もない数の不幸が一斉に並べ添えられるとそれを偶然だと認識できなくなる。それも不幸の一つ一つがそもそも人間の一生に一度起こるかどうかというくらいの大きさであれば、尚更因果関係を求める脳の動きは強くなる。

だがリンゴの木の並木道と違って、それを並べてくれる赤の他人は存在しない。

全ての不幸をいっぺんに引き起こせるような共通の原因なんて自分にも環境にも見いだせない。

そうなると私達の頭は、不幸を引き起こした当の本人を超自然的な存在に見出すしか無くなってしまう。

そして私達は、カミサマを脳から直接感じる。

 

122

この人の話には頻繁に旅が出てくる。特に、孤独や自暴や絶望と旅が強く結び付けられて語られている。ついったーのフォロワーも、たくさんの人達がそれぞれ言葉にできないようなたくさんの微妙な情緒を抱いて旅愁に耽っている。
私は旅が出来ない。だからみんなのことが羨ましく思う。そして、旅が出来ない原因を悟ったのはつい最近だった。
好きになるきっかけがなかったわけじゃない。小さいころから家族は私を色々なところに連れていってくれようとしたが、結局何が楽しいのか当時の私には分からなかった。小学校高学年の頃には、家族団欒の選択肢から旅行は消えていたように思う。その頃ちょうど私が高機能アスペルガー(※当時の名称)だとかいう話が持ち上がっていたので、私が旅に興味が持てないのはASDだからだと思っていた。
最近、本当は違うんだろうな、と思う。
私が旅に興味を持てないのは、現実に存在を持っていないからで、現実で起こることなんて全て私にはひどくバーチャルに感じられる世界のお話だからで、だから、旅に関わらず現実に興味が持てない。
孤独も、自暴も、絶望も、埋めてくれるのは全てモニターの向こう側の世界で、私にとっての本物の現実。意味もなくあてもなくバイクでひたすら走り続ける行為は、私にとってはきっと深夜のネットサーフィンだった。
最近の私は現実に存在を持ち始めた。死ぬまでにたった一回でいいから、旅が楽しめたらいいなと思う。

 

141

「アイドルへの愛って、結局自己愛だよね。厄介ファンとかさ」みたいな話。

アイドルでは無いが、私が「推し」に熱狂的になれないのは、
自己愛が足りないからだろうか。
愛してくれと思えないからだろうか。
愛されるに足る人間だと思えないからだろうか。
だから、空想上のキャラクターにすら夢中になれないのだろうか。

それが基盤にあるように思えてならない。

好きになれるようなキャラは全て、私自身の何かの投影であって、
だから本質的に、私がキャラを好きになるとき、それは他者を愛していないのだろうか。

私が推しに夢中になれないのは、
私が自分を好きではないからだろうか。
アイドル界の中の人達曰く、良いファンは黙って側に現れ、黙って去っていくという。
「推します」とか「忙しくなったので見れません、これまでありがとうございました」とか宣うやつはつまり多かれ少なかれ「厄介ファン」なのだという。
私は自分がそういう人間ではないことにある種の誇りを持って推しを推してきた。
だけどそれは、
私が自分が好きが「その程度」ということなのだろうか。
「本当に推しのことを思えば黙って去る」とかではなく、
「そもそも推しのことなんてそこまで好きではなかった」のだろうか。
疑問は尽きない。

 

176

本当に大事なことはもうインターネットにない。
「人にウケること」「承認を満たせること」を誰もが書くようになった。それが検索結果の上位を占めて、他のものに何も辿りつけなくなった。
ウケもしないし承認も満たされないが人生に大事なこと、何の代わり映えも無いがそれでも大切な生き方とか、そういう情報に私達は辿りつけなくなった。
だからインターネットを辞めて本を読めとは言わない。私は言える立場にないし、物事の本質はきっとそこにはない。
私達は、ウケもしないようなものを見にいかないといけない。
そこにしかないものがあるし、そこにないものは全てインターネットに転がっている。
インディー作品を見ないといけない。誰に見られることも意識せず、ただ作りたいからというだけの理由で作られたものから何かを感じ取らないといけない。
友人は大切にしないといけない。「あの人が良いって言ってるんだから、良いんだろうな」と思える相手を大事にしないといけない。食指を伸ばさせてくれる人の傍にいないといけない。インディーでもないけど有名というほどでもない、けれど絶対に大切なものを教えてくれる人を、決して手放してはいけない。
そのためには、有名ではないけれど大切な作品をまず他ならぬ自分がたくさん知っていなければならない。

 

181

幸福が不幸に、不幸が幸福に。ジェットコースターのように針がふれる瞬間しか私達は記憶できないように私達は出来ているのではないか。だからその瞬間に感性の全てを賭けよう━━
そんな感じのことが書いてある。だいぶ躁鬱病な発想に思う。
自分の感性が突き動かされる瞬間を追い求めたりそれが人生の至上の瞬間だと感じたりするのは、そう簡単には動かない心を持った人間の裏返しだと思う。
少なくとも、私はそうだ。
著者の方は結構に精神を病んでいそうだ。どこで見たか分からないが、「自殺した人間はその日が寿命だったのだ」なんて言葉は、人生で身近によほどのことがないと出てこない。類は友を呼ぶ。著者も言わずもがなだろう。仕事で過労死寸前になった記録もどこかに残されている。何らかの形でメンタルを患っているはずだ。
恐らく普通の人間は、そんな覚醒剤を打ったような瞬間を特別なものとして認識しない。
手を伸ばそうとしていないなら、目の前にあるものには気づけない。

 

 

*余談

マジでメモを張り付けただけになった。100番台になって少しメモが加速した形跡がある。こうなったのは内容が後になるほど良いのか、私が著者の人格に入り込めるようになったのか、読書体験というものを今更思い出したのか、あるいはその全部なのか。

分からんが、本を読むというのは本当に良い。続けたい。

 

ところで最近はちゃんと本を読めているなと思っていた折、とある読書サーバーが新しく開かれたので知らないものに触れる良い機会だぞと思って一応確認を取ってから入った。

入ってみたらみんなめちゃくちゃに硬そうな本を読んでいるので「な、なんかすごいな、エッセイなんて読んでいる私みたいなのがいていいのかな、い、いや、軽めの本を読んでいるけれど勇気が無くて書いてないだけの人もいるんじゃないかな、雰囲気に気圧されて書けてないだけだよな、きっと何人かはいるよな、よし、わ、私が先陣を切って、軽い本について触れるぞ」と思ってむちゃくちゃ勇気出して読んでいる本を書いてみたら結局そんな人は私しかいなかった。泣いた。でも良い本は全部良い本だから続けていくぞ。

 

*更に余談

著者の情報を知ってみると、この本を読むような人間が上のサーバーにいなくてよかった。いないと願いたい。あるいは知っていて言わないでいてくれただけなのかもしれないが。追記と謝罪はちゃんとしておいた。

カミサマは私の人生に一々とんでもないオチをつけないでほしい。

本当に、呪われている。