ブログを作っては消すのやめろ

ゲームの記録とか、稀に読んだものとか用です。

20230331 『さあ、気ちがいになりなさい』

私です。画像は本の表紙です。

掌編集を読みました。

1週間くらいでほぼ全部読んでしまったのに、最後の一篇だけ開けなくて1ヶ月放置かますというファインプレーをやりました。後でまた触れるけどこういう癖やめたいですね。

ネタバレについて

基本的には雰囲気についての言及に留まり、いわゆるネタバレになるレベルの内容は含まないと思います。ただし、閲覧は自己責任でお願い致します。

みどりの星へ」のみ、少しばかりネタバレがありますが背景色にしてあります。

 

各篇に移る前に

読み始めてからしばらくは「好きなタイプの掌編だ!」とか目を輝かせて読んでいたけれど、「沈黙と叫び」「さあ、気ちがいになりなさい」(表題作)の二篇で完全に心をぶち折られた。この二篇の感想で少しでも興味を持ってもらえれば幸い。

あと、「ぶっそうな奴ら」が凄くヤバい。これは頭から二個目に収録されているけれど、この位置で正解だと思う。凄くこの作家っぽい。あと他に印象に強いのは、「帽子の手品」

全体的な読後感としてもこの四篇の後味がかなり強い。そしてこの四篇に共通しているのは「SF的な要素が少ない」こと。一応SF作家なのは間違いがないのだけれど……。詳しく少し後の読後感のところで触れる。

 

一番面白かった「沈黙と叫び」の感想を先に回すことにする。全体的な読後感とかも先に書く。その後で各篇の感想のメモを貼り付ける。

 

 

感想 (1)

☆沈黙と叫び

久々に本なんて読んだから、私は感想を書き留めたかった。だけどこれは、これは……感想の書きようがない。こんなものを前にして私は一体どんな語彙を使えば良い? 言葉を尽くしきっても何一つ言い表せない……一つだけ言えるのは、これを書いた人間は本当に狂っているということだけ……あえて挙げるなら「神経症」、あるいは「パラノイア」。

お話の内容自体は何一つ精神病的な話題を含まない。それなのに、パラノイアの脳内を直視させられているようなおぞましい感覚以外に読んでいる途中のことを何も覚えていない。こっちの気が変になりそうで、だけど甘美な毒のように語りは巧みに誘惑してきて、私は頭がおかしくなるのを分かっていながら欲望に負けて中を覗いてしまう……。

実はこの部分の感想は、該当部分を読み終わってから1ヶ月ほど後の今書いている。だけれど……読んでいる途中の、そして読み終わったあとの、魂がぞっと震え上がるような感覚を私は忘れることが出来ない。1ヶ月を要しても、適切な言葉が何一つ見つからない。

……すごい作品ですよ、これは。

 

全体的な読後感

フレドリック・ブラウンという作家は……いや、たった一集で判断するのは早計なのだが……どうにもいわゆるSFよりも、日常的な狂気を書いている方が良かった気がするのだ……。この独特の……上手い言葉が見つからないのだが、神経症的とでも呼ぶしかないような、全くに理路整然と並べながら常人の心理状態を逸するストーリーテリングは気が狂っている。「こいつは本当は精神病患者で、実は隔離病棟の中から執筆してるんじゃないか?」と本気で思ってしまうようなこんなにも静かで狂気的な語りは今までに見たことがない。

反対に、この本の中のSF的な収録作について私は折に触れて「素朴なのに凄く面白い」と言ってきた。だがそれは彼が実のところまったくの狂人で、独房から解放されるには正気なSF作家のフリをする必要があり、だけど気ちがいなのを隠しきれなかったが故に文章に狂気が滲み出てしまったようなところが「面白さ」の正体なのではないか、そんな妄想さえ湧いてくる。

読み終わってみると、たしかにどの作品も面白かったと思う。だけど私の心に最も鮮烈に残っているのは、表題作の「さあ、気ちがいになりなさい」ではなく「ぶっそうな奴ら」「沈黙と叫び」の方だ。この二篇はSF的な要素を全く含まない。そして……そんな作品が一番印象深くて後味を引く。この作家は純粋な狂気を書くためだけに生まれてきたのだろう。この二篇よりイカれた話が果たしてこの世界にどれほどあるか。内容が狂っているのではない。書き手が狂っているのだ。

念のため書いておくと、「さあ、気ちがいになりなさい」も十分に頭のおかしい作品だ。ああ、頭のおかしい作品だ。もうこれ以上言うことがあるか。放っておいてくれ。読むべきではないようなものを読んでしまったのだ。これを書いたやつは、頭がおかしいんだ。

 

そして……少しばかり故人を偲ぶことを書く。

彼はここまで狂気的な筆致の人間なのに、SFなのか、よりによってSFが書きたかったのか。一体どうしてだ。あなたならきっとその辺の人間が会社に勤めるだけの筋書きでも世界一マッドネスな作品に仕立て上げられるだろうに。

たしかに、ストーリーテリングの人外じみた上手さはSFと相性が良い。だけど相性が良いことは最適を意味しない。実際、SF的な要素の全くない「ぶっそうな奴ら」「沈黙と叫び」がどう考えても他より飛び抜けて面白い。なんならこの二篇のためだけでも読む意味がある。

向いていることとやりたいことは違うんだよなと世知辛いことを思ってしまった。

 

余談

今日は3月31日なわけだが、最後に配置された表題作たった1個を除いてこの本をほぼ読み終わったのは、実に2月末のことであるらしいのだ。感想メモの作成日がそう言っている。表題作の手前までざっと読んでしまって、そこで謎に1ヶ月も停滞していたというわけなのだ。

というのも、表題作の一個前の「沈黙と叫び」があまりに凄い作品だったのでちょっと身構えてしまい、表題作は万全の体調で臨まなければ、さあ読むぞ、体調が良い時に張り切って読むぞ、なんて思っていたら1ヶ月も経ってしまっていたのだ。確かに今日は体調が良かったし、実際中身はすごかったが、それにしても1ヶ月というのは、ちょっとどうなんだ。人生は短いんだぞ。そしてぶっちゃけ「沈黙と叫び」の方が面白かった。人生そんなもん。身構えてる暇があったら6割の体調で読んじまえ。

しかしどうにも完璧主義が治らん。だが、1ヶ月というのは実のところ私の人生ではマシな方だ。さいきんLibrary of Ruinaというゲームをずっとやっているのだが、あれは完璧主義が過ぎて始めるのに2年だか3年もかかってしまった。それに比べたら随分よくなった。次に何か読む時は、完璧主義にとらわれる期間がとりあえず2週間を切るよう目標にしたい。短くしていけたらいいな。

 

 

感想 (2)

読んだ日に取ったメモをそのまま貼り付ける形にする。必要があれば追記する。

一部、時間の都合で当時のメモが無い。これを書いたのは情動をアウトプットするのが目的であって、日記としての体裁や情報の補完を完璧にするのは今の目的ではない。メモの無い部分は白紙のままにする。

 

みどりの星

※ネタバレを含むメモなので一部白字

 

「緑色がない」というアイデアをこういう風に使うとは。

光の三原色系の話については、最近のギミックゲーを見ているとThe Witnessの一部やDiscoloredのような高尚な仕掛けを思い出しがちだけど(※両方未プレイ)、「めっちゃ赤くてちょっと青くて、そして絶対に緑色だけは存在しない星、そしてそれだけが人間にとって無性に寂しくて仕方がない」というのは単にそれだけで十分なインパクトがある。素朴だけど、アイデアの使い道としてはこっちの方がずっと良い気がする。それとも自分がギミックじみたものに触れすぎたからかえって新鮮に見えるのだろうか。

しかし、単に「この星は緑色はありません」とのっけから言うようなストーリーテリングではこんな鮮烈なインパクトは出ないだろう。冒頭からの異世界じみた描写をきちんとやっていて、読者が気付くか気付かないかの抜群のタイミングで出すからこの感慨がある。

これは良いぞ、このストーリーテリング良いな、ぜひ全部読もう、って思うエンジンになった作品。

 

読後追記:この辺りはまだ「なんか星新一っぽくて懐かし面白いぞ~」とか呑気なこと思ってるんだよね。

 

☆ぶっそうな奴ら(二番目におもしろい)

すげえ精神病的だよなあこれ。重篤な見捨てられ不安とフラッシュバック持ち、そしてごく軽度のパニック持ちとしては違う意味でゾクゾクしてしまうかもしれない。

いや、良い。本当に良い。生々しくリアルだ。私に見えている世界は本当にこんな感じなんだよ。

健常な人が読んだらどう思うのかが気になる。

 

読後追記:この作家の狂気がこの程度で済むと思うなよ。たしかに話自体は収録作の中で2番目にイカれてるとは思うけど、こいつがイカれてるのはそういうことじゃない。

 

おそるべき坊や

非常に短い。だけど書いた人はSF(古い意味)が本当に好きなんだろうなと思った。話がそういう舵取りの仕方だと思う。

 

電獣ヴァヴェリ

他の話と違ってかなり科学チック。とはいえ科学リテラシーのレベルが全く高くない、誰でもそう感じてしまうと思う。だけど仕方ないのだ。何しろこの本に収録されている短編はすべて1940年代に書かれたのであるから、恐らく当時はこのくらいの知識が作家をやる上で最先端だったのだろう。あるいはむしろ、当時にしては科学リテラシーが相当高いと考えるべきなのではないか。なにしろ原子核の存在が実験で広く確認されたのですらじつに1911年のことだ。

時代的な必然の都合についてはそういうものだと思って読まなければならない。

そして何故だろう、現代人からすると嫌でも目についてしまう科学的な不正確さとは無関係に、この話は面白い。

優れたストーリーテリングというのは知識の正確さ(自然科学に限らない)によってのみ保証されるものではないのだ、この話はそのことを教えてくれる。

私はどうしてもギミックじみた話が好きだから、こういう素朴なのに面白いものを読むとすごく斬新に感じる。この辺りの手触り感については「みどりの星へ」もそう。

 

ノック

導入の始め方と終わらせ方が物凄いな。小説を書く人間じゃないが、こういう構成のやり方は『異色作家短編集』の内の一巻であるに相応しいものなのだろう。本は読む方じゃないけど、それにしたってこういうのはあんまり見たことがない。SF作家が好きそうなやり方だ。

しかしこれは面白いな。面白い。面白かった。全部の作品がそうだが、素朴なのに物凄く味がする。

他の作品(たとえば「みどりの星へ」「電獣ヴァヴェリ」)を読んでいても感じるが、異星人的・異界的な何かと遭遇するのがこの時代のSFには流行りなのだろうか。

 

どうでもいいが、これは『ノックの音が』の元ネタだったりするのかな。そんなことはないか。

調べてみると『ノックの音が』は1965年が初版で、『さあ、気ちがいになりなさい』が翻訳・出版されたのは1962年のようだ。この「ノック」からインスピレーションを受けた、ということは実はあるのかもしれない。

https://ameqlist.com/sfb/brown_f.htm#hist07

 

ユーディの原理

メモが無い。この人はSF作家なんだなと強く思わされた話。それでも一集読んだ後になると「たしかに十分面白いのだが……」という気分にはなる。

 

シリウス・ゼロ

舞台は遠い未来、おおいぬ座シリウスの周囲を飛んでいる小さな宇宙船内にて。テクノロジーや宇宙開拓が進んで、シリウス系第一惑星と第二惑星くらいまでは人間が住めるようになっているらしい。

しかし、この話を読もうとするとまず一番最初に目にとまるのは内容よりも題名だ。原題が 'Nothing Sirius' なのだ。どうして「シリウス・ゼロ」なんて邦題にしたのだろうと私は首をひねった。(カンの良い人はこの時点で原題の意味が分かるかもしれないが。)

妙な邦題を頭の片隅に置きながら読み進んでいくと、物語の方では小型宇宙船の船長がシリウス第一惑星の更に内側に未知の惑星を見つけることになる。さながら第零惑星だ。だが着陸してみるとそこはとても荒唐無稽に満ちた星で、人間にとっての常識の欠片もない。第零惑星に到着して一通り散策を終えると、主人公たる船長は新発見についてこう言うのだ(まあ船長といっても、乗客は運転手含め4人だし、彼らは別に探検家でもなんでもないのだが)。

 

『「むずかしいぞ、これは。ソアやフリーダのことがある。ソアがシリウスの第一惑星、フリーダは第二惑星とされている。だが、ここはその更に内側だ。そうなると、それぞれを二と三に番号を変えなければならぬ。それができないのならば、ここはシリウス・ゼロとなるべきである。つまり、シリアスがゼロ。まじめさ[シリアス]がゼロだ」』

([]内はルビ)

 

なるほどそういうことか。

"Nothing Sirius" と "Nothing Serious" は発音がほぼ同じだが*1、このつまらない冗談は日本語にしてしまうと通じなくなる。この惑星の名前を「ナッシング・シリウス」なんて直訳したら、意味が通らない上に惑星の名前という感じがしなくて非常に不自然だ。一方で「シリウス・ゼロ」の方は字面や響きがいかにも惑星の名前らしい。それに「シリアスがゼロ」と言えば原文のジョークも意味が通る。だからこんな邦題になったわけだ。これは凄い翻訳だ。

 

翻訳の話はさておいて、そんなシリウス・ゼロに着陸して物語が動き出すわけだが、面白かった。相変わらず素朴なのに面白い感じだ。これは不思議な感覚だなあ。

 

メモの話がクソほど逸れている

私は少し、媒体を問わず、ギミック95%語りの面白さ5%みたいな話に人生で触れすぎてきたんじゃないか。「シリウス・ゼロ」は体感でギミック20%語りの面白さ80%みたいな話だが、全然面白い。もし私が触れてきたギミック95%な話にこの語りの面白さがあれば、きっともっと面白くなっていたんだろう(そして「ストーリーがある方が意外と面白いな」という経験は、実際あるSF作家を追っていた時に強く感じたことがある)。

ちょっとギミック的な面白さと語り的な面白さについて自分の中で思うことがあったので書いておく。ホラゲにハマってた頃の思い出が話の中心になる。

私がギミック好きなのは生来のものだとは思うが、うつ病のせいでその傾向が余計ひどくなってて、もう本当にろくでもない状態なんだよな。脳がまともな強度の刺激を受け付けてくれないので欲望がどんどん抽象化・先鋭化されていく。ギミック的なものしか受け付けなくなっていく。クリッカーゲーはいざしらず、一時期ホラーゲームを狂ったようにやって「あ~~~この部分はあの作品のこのシーン/ギミックのオマージュめうね~~~」「この手の演出はあのゲームの系譜なんだよなぁだから展開的に次にこれが来ますはい来たぁ~~~」みたいなのを無限に繰り返していた時期があった。病気だ。いや病気だが。うつ病だが。

それで、山のように作品を漁って過去一度も類似例のないギミックを見つけては心から感動していた。

確かにホラーゲームにも語り的に優れている作品はある。それでもフリーゲームやインディー作品は全体としてギミックの発明にこだわりがち*2

ホラゲに限らず、私が触れてきた作品って本当にギミック的過ぎるんだとかなり思わされている。だってうちメメントみたいなの大好きやし……。SAWシリーズがファイナルまで全部好きな稀有な人種やし……。ストーリージャンルとしての鬱ってどう頑張って絶望的な状況を発明するかみたいなとこあるし……。沙耶の唄と「ととの。」好きやし……。ゆゆゆ見てると心が安らいでまう……。百合作品も冷静になるといかに頭おかしい話考えるかみたいなのばっかや……。クズの本懐の設定とか1話からして狂人の所業や……。

 

ようやく話が戻ってくる

そんなわけで、ギミックめいた話じゃなくて、ストーリーテリングが面白い作品って、良いんだなぁ。そんな風に新鮮にしみじみ思っている。

今までは何を見るにも物語のギミックめいた部分にばかり目が行きがちだったけど、これからはもうちょっとストーリーテリングを楽しもうという気構えが出来るのかもしれないな、と思った。物事の見方を変えてくれる本って、素晴らしいと思う。(うつ病の頭が物事をゆっくり楽しむなんてことを許してくれればの話だが……。)

でもこういう、世界の見方を変えてくれるものって自分の趣味の範囲からはいくらdigっても辿り着けない範囲にある事が多いわけで、だから趣味の違う知り合いはこの世で一番大事にしないといけないし、特に興味無くても古典は雑多に知るべきなんだよな。

まあこんなのクソ当たり前の一般論を述べているだけだし趣味人な皆様は10年以上前に気がついていることであろうし、だいたい私は古典を知っていると言えるようなものは何一つありませんが……(クリッカーとホラゲだけなら古典は知ってるかもしれないがそんなの言うだけ悲しくなるだけだ)。

 

町を求む

ストーリーテリングって、良いよね!」って感想を長々と書いた直後にこんな作品ぶっこんでくんじゃねえよ。マジで油断ならねえ。

 

帽子の手品

メモが無い。だけどこれは凄く面白かった。SF的な要素は少ないが面白かった。

やっぱりこの作家はこういう日常的な狂気や恐怖を書いている方が向いてるんじゃないか。好きだぞこれ。

 

不死鳥への手紙

メモが無い。この掌編集の中で唯一面白くなかったかもしれない。ごめん。強いて言うなら純粋なSFをやろうとしたんだと思う。だけどあまり書くことがない。悲しいけどこれは心に残らなかった。

 

☆沈黙と叫び

冒頭に回したので書くことはない。

 

さあ、気ちがいになりなさい

ありとあらゆる意味で一番この作家っぽい話だった。この作家のエッセンスが全て詰まっている。

個人的には「沈黙と叫び」の方が好きだ。だけど「沈黙と叫び」はこの作家の持つ要素の一部しか使われていない話であって、たしかに表題作にはふさわしくない。

そして表題作にするには十二分にこの作品は本当に面白い。

それにしてもこれを表題作にしようと思った編集者は相当な勇気のある人だ。たしかに本を物色している人間の目には留まるだろうが、いくらなんでもタイトルが攻めすぎ。でも、これが表題作で色々と正しいのだと思う。だって一目で気の狂った作家の本なんだろうということが分かるし、実際かなりの作品は気が狂っている。潜在的な読者層にあまりにも的確にリーチしすぎる。実際私はぶっ刺さった。

 

 

締めとか

内容について書きたいことは書いたので特に思いつかない。とりあえず素晴らしい本だった。病的な語りが読みたい人は、「ぶっそうな奴ら」「沈黙と叫び」だけでもどうか読んでほしい。

日記的なことで言うと、インプットをしよう、アウトプットをしよう、本を読もう、と思いながらちゃんと実行できたのが偉い。完璧主義で1ヶ月止まったのはマイナス。それでもちゃんとどうにか読み終えた。

次はもっと早くサイクルを回したい。

*1:地域や時代によっては全く同じかもしれない

*2:これはたとえばIbレベルの大作ではなくて誰も名前を知らないような無数の作品の話をしている