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ゲームの記録とか、稀に読んだものとか用です。

20200731 『ケーキの切れない非行少年たち』の著者を応援し、またこれ以上障害者が関係者の自己満足に消費されないために

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(※この日記を書いた後、発達障害支援者の界隈に晒し上げられ盛大に叩かれましたが、私は発達障害当事者です。)

(叩かれたことに伴って多数の加筆修正を行いました。)

 

読んだ。

凄く面白かった、けど、読んだ人間の9割……、いや、99%は内容を誤解すると思うので、誤解しないでこの本を読むための知識を私の実体験を交えて書いておく。

本の内容は一貫しており、「発達障害/境界知能/知的障害が教育の中で見過ごされ、適切なケアが受けられなかった末に非行に至ったケースが極めて多く、教育が適切に機能していれば未然に防げたはずの加害者と被害者が量産されている」というのが大体の趣旨にあたる。

 

ただしこれは、決して「障害持ちの犯罪者に寛容であれ」という意味ではない。また、99%の人間は「境界知能」とか本書内で形容されている人間の像を正しくイメージ出来ない。絶対にできない。なので私はそれだけをこの日記に書きたい。

 

ただしそれは長くなるので少し後に回すとして、先に「障害を見過ごされた青少年達による非行(犯罪)がいかに悲劇的でかつ恐ろしいか」を、「実行機能」が弱い例を用いて本書から一例挙げる。

「実行機能」というのは名前が紛らわしいが、『後先のことを考える』能力の事を指す*1。これが弱いと後先を考える能力が弱いということだが、そのレベルは常人の想像を絶する。

例えばあなたが青少年で何かの都合でどうしても3000円欲しいが今月はもうお金がない、となったとしよう。あなたは何を考えるだろうか?普通、親に頼んでみるとか、小遣いの前借りを要求するとか、最悪知り合いを頼ってみるとか、そういう選択肢が浮かぶだろう。ところが実行機能が弱いとそうはいかないのである。路上で人を襲えば3000円手に入るから襲えばいい。そんな事したら人生終わってしまうが、「実行機能が弱い」というのは「路上強盗なんてやったら人生終わる」なんて少し先の未来も見えないレベルの事を指すのだ。そうやって小金を手に入れて少年院行きになるケースは少なくないという。しかも折として殺人に発展するし、そうなれば意味もなく人が死ぬ。加害者が教育の中で知的障害を発見されていれば死ななかったはずの人間が死ぬのだ。こんなバカバカしい話が信じられるだろうか?しかしこれは慄然たる現実である。

他にも恐るべき数々のケースが典型例として紹介されているが(「典型例」が作れるくらいパターン化されているというのが恐ろしいところである)、それは今私が書くべきことではないので、書かない。

 

それよりもこの本の想定している「非行少年」の像を、実際に私が見た境界知能のケースを紹介することを通してより具体的にイメージ出来る手助けをすることが、この手の関連に少しでも知識のある一読者としての務めではないかと思う。

 

(追記:内容が発達障害支援者の反感を買い晒し上げられプチ炎上し、特に「発達障害の定義が違う」という不満が多かったため、この点について大量の加筆修正を行った。

これにともなって当ページは、従来の「私が見た境界知能者の例のケースを紹介すること」に加えて、発達障害という単語についての詳述」、そして何より発達障害支援者と障害当事者の間にある絶望的な壁」という3つのテーマを含むことになり、内容が煩雑になっている。

それでも上から下に読んで文脈が途切れることが無いように出来る限りの努力を行った。)

 

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B07V2397JY/

 

追記:このページを公開した後、どうなったのか 

このページが公開されてから暫くの間は何の反応もありませんでした。というか私はそもそも普段から反応を期待していません。誰かに読まれることすら期待していません。ここはインターネットの片隅にあるただの日記です。

ところが数週間経った折、『ケーキが切れない非行少年たち』という本や著者自体へ怨みを抱いていた関連施設職員がこのページを掘り当ててtwitterで晒し上げ、支援者や障害者の家族の方々から悪い意味で大きな反響がありました。

どれほど多くの心ない言葉が浴びせられたかは数えることも出来ません。

 

発達障害の定義が全然違う」というのが主な批難でしたが、単なる指摘の域を超えて誹謗中傷のレベルになっているものがあまりに多くありました。中には私がうつ病患者である事にすら言及し、サインバルタを服用していた時期がある事に触れるなど、もはや単に人を傷つけることだけが目的の発言もありました。

しかしながら、当ページに寄せられた発言のほぼ全てはページ内容のどこが間違っているのかを具体的に指摘しておらず、twitterにて、「それを書いた本人ですがどの辺りがおかしいのでしょうか」という旨のリプライを当ページに言及した全ての人間に一人ずつ送ったところ、概ね全員が話を逸らしたり無視したり更に嗤ったりブロックしたり私よりも何百倍もいい加減な知識を披露したり、もうとにかく何もかもが私を憔悴させるだけの悪意ある罵倒の山だけが私に降りかかりました。

具体的に言葉にできないのに「とにかくお前の言っていることは違う」と繰り返すのは「指摘」ではなく、己の知識不足から目を背けた極めて卑しいただの嫌がらせです。それだけをして帰っていった人間の数は数え切れません。

「界隈」というのは怖いものです。

 

しかしながら幸いにも、理性的で紳士的なご指摘・解説を最終的に3名の方から頂けました。

下の節の定義には確かに間違いが含まれています。正確に言えば、古い定義で、現在使われていないものになります。また、かなり後の節の広汎性発達障害についてはほぼ全て間違いです。ただし、あまりにも疲れているので今は修正できません。この後修正できるかも分かりません。それでもこの本を読むためのより近いイメージを提供する、という目的に対しては適うものだと思います。このレベルの話なんだ、という点だけを認識してください。

↑ 頂いた情報を元に、大量の加筆修正を行いました。重ねて上の3名の方には感謝を申し上げます。

 

「境界知能」「知的障害」「発達障害」の定義について

本書内で頻繁に用いられる「境界知能」「知的障害」「発達障害」という単語であるが、当事者等でないとあまり違いが分からないかもしれない*2。私が境界知能者を見た時の体験とも関わるので、ある程度の解説を与えておく。

 

まず書くべきこととして、「境界知能」「知的障害」を決める基準はIQである。IQ85~70を境界知能、IQ70未満を知的障害と呼ぶ。

 

発達障害についてははややこしいので後の節に回すが、少しだけ言及しておくと、現在では非常に曖昧な術語になっている。

発達障害」という単語の定義が2013年のDSMの改訂で変更されたことや、運用の違いや、過去に広汎性発達障害という病名が存在したこと、「広汎性発達障害」という枠組みが廃止された今でもASDに近い意味として未だに使われていること等が原因に挙げられる。現在の定義においても非常に多くの様態を指す包括的な単語になっている。

 

上のような理由のため、単に「発達障害」とあったら、「少し変わった人」「普通の人が簡単に出来ることのうち、一部だけが極端に苦手な人」のように思って読めば問題ないと思われる。(一応明記しておくが私は発達障害の当事者としてこれを書いている。)詳細は後に回すが繰り返し非常に広い概念を指すため、本書内に著者なりの定義がないこともあり、この程度の意味合いで読んでおくのが適当ではないかと思う。

 

また必要と思われる補足として、発達障害関連の呼称や分類は今後また変わる可能性がある。*3

しかしながら、境界知能と知的障害については、名称が変わってもIQ85~70とIQ70未満という基準は絶対に揺らぐことがないのでこの2個だけ覚えておけば十分である。どうしてこの数字になるのかは2個後の節に回す。

 

私の書くこの文章内では「境界知能」「知的障害」について上の定義で統一する。

 

私が研修で見た境界知能のケースについて

IQ85~70がどれくらいの能力なのかについて

私は教職課程を取っていたのだが(途中で辞めた)、教職課程を取った者は境界知能の子供たちに生で触れることになるので、リアルの体験をささやかながら書こうと思う。

教職課程では「特別支援学校(発達障害者等の行く学校)」「社会福祉施設」にそれぞれ2日間と5日間通うことが義務付けられている。また社会福祉施設には大雑把に言って「身体」と「精神」という俗語があり、「精神」と言ったら境界知能者・知的障害者が通うないし入居している施設を指す。通所者の年齢は多様である。そして私は「精神」を引いた。地獄である。

 

時間の関係と年齢層の問題から特別支援学校の体験だけを書くことにするが、そこにいたほとんどの生徒はもはや人間ではなかった。境界知能と知的障害の人間が混ざっているとはいえ、生で間近で見る障害の影響は想像を絶した。

 

彼らが就労するにあたって必要な訓練として図画工作のような時間があったのだが、そこで見た衝撃的な光景が忘れられない。

生徒の年齢は小学生から中学生である。その年齢の子供たちにミキサーの使い方を教える授業だったのだが、これが絶望的に出来ない。たった2つの材料を模した紙切れと水を混ぜるだけなのだが、それが出来ない。

「ミキサーで2つの材料と水を混ぜる」という動作が何であるかを馬鹿馬鹿しいくらい分割して書くが、「ミキサーの電源を繋いで」、「ミキサーの蓋を開けて」、「蓋を置いて」、「材料Aの蓋を開けて」、「スプーンを取って」、「材料Aをスプーンですくって」、「スプーンの中身をミキサーに入れて」、「スプーンを(できれば清潔な場所に)置いて」、「材料Bの蓋を開けて」、(Aと同じなので中略)、「コップを取って」、「水道でコップに水を入れて」、「ミキサーに水を入れて」、「コップを置いて」、「ミキサーの蓋を締めて」、「タイマーをセットして」、「片手でミキサーを軽く抑え」、「ミキサーのスイッチを入れて」、「両手でミキサーを抑えて」、「タイマーが鳴ったらミキサーのスイッチを落として」、「ミキサーの電源を外して」、「ミキサーを台所に持っていって」、「ミキサーの中の完成品を指定された容器の中に出す」という一連の日常的な動作が「理解」出来ないのである。(しかも片付けの段はここに書いてない。)この授業には生徒は20人くらいいて在校教員が5人ほど、教員の指導は熱心だったが私の班で3時間以内に自力で出来た人間はゼロ。マジの境界知能ってそういうレベルである。この手の専門家が書いた本の中で「境界知能」とあったら世間一般の言葉で知的障害と呼ばれるものを想像したほうが良い。

ちなみに我々教職課程の人間は基本的に呆然と眺めているだけである。下手に手を出しても邪魔なだけなので。

 

そして驚くのはこの先だ。この作業の最中、この部屋は図画工作に使うのであるから非常に広く、床が10m*10mくらいで天井も3mはあるはずなのに、突如として轟音が鳴り響いた。床も揺れたし、私はマジで地震かと思った。だが轟音は断続的に鳴り響き、一体なんだこれはと身震いし、ようやくその音の発信源が部屋の中にあると気付いてそちらに目をやると、音の正体は小学生高学年~中学生と思われる男児壁に頭を打ち付けていた音だった。自殺企図である。*4 自己肯定感が我々の想像のつかないレベルで底抜けているので突然自殺企図を始めるのだ。その力は凄まじく(何しろあんなサイズの部屋が揺れるのだから……)、大人の教員が3人がかりになってようやく壁から引き離すのに成功し床に組み伏せていた。日常とは縁遠い世界である。

 

本書にはそういう人達が登場しているのであって、これを知らないと受けるイメージを大きく間違う。

 

ところで私がその学校にいた2日間の中で1人だけ、どうも見た目からして普通そうで(知的障害者に特有のあの顔の崩れ方が見られない)、話してみても実際に普通な感じの男の子がいた。小学5年生で、体型は少し丸い感じだが、「太っている」という印象を受けない。短髪で清潔感があってのことだろうか。むしろ爽やか目という感じだ。あの空間では、清潔感を持っているだけで日常的な動作をだいぶ行えるという証だった。

彼は明らかに学校の中で浮いていた。周りに人間がいない中で一人だけ人間だなという感じがした。IQ85のギリギリくらいで不運にもここに入れられたのだろうか、と一時は思った。しかし彼がそこにいた理由はすぐに分かったのである。

授業時間は理科だった。生徒6人に教員1人がつき、私はそれを見ていた。教員が植物の葉っぱの種類について話した後、実物の葉っぱを人数分持ってきて渡すと、上から紙に圧して輪郭を鉛筆でなぞるよう指示した。この時点で彼を含め全員が苦労し、出来ない生徒もいた。壊滅的だったのはその後で、葉っぱの方を下にして紙を上に敷き、上から輪郭をなぞらせる段に入った。これは彼を含め出来た人間が誰もいなかった。

その男の子は普通に健常者のように世間話が出来るし、話していて特に変なところもないし、日常的な動作も普通に出来る(ようにその日の限りでは)見えたし、これは普通の人間と見分けがつかないと思った。それでも小学5年生で上のような簡単なことが出来ない。発達障害の限りなく上の方で、しかし決して健常者ではない人間。それを目の当たりにした私はあまりにもショックだった。彼の人生がいかに悲惨なものか想像しただけで目を覆う。

 

この本で想定されている「ケーキの切れない非行少年」というのはこのレベルの人々の話である。

ここを過つと印象を実際から大きく違えることになる。

 

 

補足:IQとかの定義について

ぶっちゃけIQの歴史について語ると凄く長くなるので割愛するが、とりあえずIQにはどの試験で測ったかによって物凄くたくさん種類がある。簡単にIQ180とか出るテストもある。

しかしながら現在専ら使われているのはウェクスラー式知能検査で、IQと言ったらこれの事だと思っていい。*5実はこれ、元からし発達障害を炙り出すために作られたテストだったりする。天才を見つけるためのテストではないのである。

ウェクスラー式知能検査は年齢によって受ける問題が違い、16歳以上であればWAIS (Wechsler Adult Intelligence Scale)、それ未満であればWISC (Wechsler Intelligence Scale for Children)を使う。

以下統計の話になるが、この結果は正規分布すると仮定されており、平均値100、標準偏差15に設定されている。従ってIQ85~70というのは-1σ~-2σ、IQ70というのは-2σより下の領域になる。「境界知能」「知的障害」の名前が何回コロコロ変わろうと、それを定義するのがウェクスラー式知能検査のIQである限り、この値が変わることはないのだ。だからこれだけ覚えておけば良い。

 

 

発達障害」の定義について

さてさっき後回しにしたことであり、また私が叩かれた直接の原因でもある、「お前の書いた発達障害の説明は無茶苦茶だ」「では発達障害とは何なのか」というくだりに入りたいが、結論だけ言うと、あまりにも曖昧なので「発達障害」って単語だけじゃ何指してるか分かりません。以上。情報を求めてる人はここで回れ右で良いと思う。マジで。*6

ここから下は全て加筆である。

大学の講義(相当前)とtwitterで現在関係する分野を勉強している方々から頂いた情報を元に、ズブの素人が書いた文章であるという事を念頭に置いて読んでもらいたい。

発達障害」の変遷について

DSM-IV時代

まずDSM-IV時代での「発達障害」の扱いについて書く。2013年の改訂以前、及びそれが現場に普及するまでの数年後までのことである。

この頃、IQ85~70の区間が「発達障害」として扱われることが時としてあった。ただし、それでよい、という人間と、必ずしもそうとは言えない、という人間の両方を確認している。

いずれにしてもIQが鑑別に使われたかの有無に関わらず、その様態は多様である*7

ただ、重要なのはそこではない。

DSM-5において、発達障害」は全く別物と言っていいレベルに定義が変更されてしまった。 (詳細は次の節に記載。) 現在ではこのIQ85~70の区間は「境界知能」と呼ばれることになっている。

このため、発達障害」という単語を知った文献が何年に書かれたものかによって現在との乖離が発生する。そしてDSMの改訂後も、現場に完全に浸透するまでは数年は見たほうが良いと思うので、2013年から数年間の間に書かれた文章を見た時は気をつけた方が良い。

 

また、DSM-IVの時代には「広汎性発達障害」という項目があった。これは同時代における発達障害とすら全く別物と言っていいほど違う様態だが、略すと「発達」になるため、例えばtwitterで「発達」を自称する人間がDSM-5における発達障害の事を指しているのかDSM-IVにおける広汎性発達障害の事を指しているのかは不明である。

この「広汎性発達障害」は現在のDSM-5では分類として廃止されているが、代わりにその中身の殆どが自閉スペクトラム(ASD)に吸収されたため、現在ですら「広汎性発達障害と言う単語を使い、自閉スペクトラム(ASD)と同じ意味で用いる人間がいる*8

 

このようにしてみると、実のところ、「発達障害」というのは悪い意味で恐ろしく曖昧な単語である。

 

そして、混同を招く原因はまだある。

 

DSM-5時代

現在のDSM-5での「発達障害」は、世間一般に有名な名前だけを挙げるのであれば、ASDADHD、LD(学習障害)、知的能力上の障害(IQ上の問題) などを包括する総称である*9。ところがこれらの様態は、挙げた4種だけでもそれぞれ全くと言っていいほど違う*10。全く別の病気を同じ鍋に入れて煮込んだような単語であるのが現在の「発達障害」という単語と言ってしまっても良い。

 

しかもその「発達障害」という名前の鍋の中には、DSM-IV時代に料理した時の食材が残っているのだ。誰かが単に「発達障害」と発言した時にその人が何を言おうとしたのかを知る術は皆無に等しい。意図されていたのは果たしてDSM-IV時代の何かだろうか?それとも現在の定義だろうか?なんだろうと、一体どのような様態を指していたのだろうか?

蓋を開けてみればあなたが「発達障害」だと思っているものと相手が意図していたものは全く違うものだったりすることだってザラではないのだ。

 

その他の混用を招く諸原因

そして更に恐ろしいことに、話はDSMの定義だけでは済まない。

臨床で上のような定義がどう扱われるかは、医師やカウンセラー個人個人によって違う。マジで違う。DSM-IVの時代になるが、私は幼少期、それぞれ別の病院で「高機能自閉症」「アスペルガー症候群」「広汎性発達障害」「何の問題も無い」と同時に大量のラベルを貼られたことがある。(どうでも良いがドクターショッピングをしていたのは私ではなく私の親である。そもそも私は今で言うASDなので家にずっといたかった。)

DSM-5で少しは整理されたとはいえ、「専門家ですら人によって運用が違う」という現状には変わりがないだろう。*11

 

また別の要因として、ウェクスラー式知能検査の改訂がある。ウェクスラー式知能検査の下位検査項目のスコアを様々吟味することは極めて重要であるが(どの能力の間に差異が大きいかや得手不得手が分かり効果的な支援に繋がるためである)、1991年にWISC-III、2003年にWISC-IV、2014年に最新版のWISC-Vが出ており、最新版では「動作性IQ」「言語性IQ」というそれまであった大きな括りが廃止され、「全検査IQ」が残るのみとなっている。発達障害に深く関わる検査自体もここまで変化しているのだ。

 

ここまでたくさんの混用の原因があるところに更に更に、研究と、臨床と、教育と、法律と、行政と、etc……で全く定義も運用も違ったりする。

本当にとにかく、「たくさんの使われ方をしている単語」としか言いようがないのだ。

 

発達障害」という単語に関する結論と、私が誹謗中傷される謂れは無かったということ

こうなるともう「発達障害」という単語を見た時に何を指しているのか分からない。知らない人と話す時は自分なりの定義を明確にしておいた方が良いだろう。*12

そして発達障害関連の界隈にはよくあることなので書いておくが、「相手の定義が自分と違うこと」は、決して貴方や発達障害者を否定することを意味しない。まともな人なら言うまでも無いことだが、まともな人がほとんどいないから私はあそこまでぶっ叩かれたんである。

 

もはや、この現代において、他人の「発達障害」という単語の定義がおかしいとかいう事をわざわざあげつらう大義名分は、無い。

というか発達障害に限った話じゃないが、どんな間違いだって、ただ淡々と指摘すれば良いだけの話を具体的な指摘すら行わずに悪口を重ねるのはただの嫌がらせであり、集団でやったらそれはただの吊るし上げである。

定義自体についても、少なくとも上のいずれかに当てはまっていればいいし、あるいは上のどれにも該当しなかったからといって、(まさに私がDSM-IVの時代で、ある界隈では正しかった定義を使っていたように)過去の版や時代による変遷、また細かい運用のされ方の違いを考えると決して間違っていないことだっていくらでもある。今この瞬間にも次の改訂が起こるかもしれないし、そもそも相手が研究や臨床のフィールドにすらいない可能性だってあるのだから。

 

 

では、何故私は界隈に叩かれ大量の誹謗中傷を受けたのだろうか?

私が加筆修正前に用いていた定義がDSM-IV時代のもので、しかも実際の運用には相当な差があるということは、大量の誹謗中傷をかいくぐってようやく3人だけ返事してくれてようやく分かったことである。

誹謗中傷や嫌がらせをしていた人間は、「発達障害とは何か」を全く知らなかったのである。

では、何故彼らは怒っていたのだろうか?

発達障害とは何かを知らない人々がお前は発達障害を知らないと集団で袋叩きにする」なんて、こんな馬鹿な話あるのだろうか?

 

あるのだ。

そもそも彼らにとって発達障害がどうのというのは口実であって、そんな事に怒っていたのではないのだから。

 

この辺りに発達障害の「家族」や「支援者」の最大の闇がある。

 

ここから先は今回の件に限った話ではなく、発達障害の支援者を幼い頃から観察してきた私が確信していることである。

ただしあくまで傾向としての話であり、あなたはそうではない、というのならそれより良いことはない。本書の著者のような、「きちんとした支援者」が増え、自称支援者が減ることを祈るのみである。

 

 

その前にちょっと愚痴

これは完全な余談になるし読み飛ばしてほしい。

今回のプチ炎上の原因はとある施設職員が私の日記を晒し上げた事が発端であるが、この方は『ケーキの切れない非行少年たち』自体に謎の怨みがあるらしく、この著書を怨むツイートを何か月にも遡ってしたり、著者の開発した「コグトレ」を何の根拠もなく否定する発言を繰り返していたようだ(該当者のセルフRTから分かったこと)。誘爆を食らった私は我ながら災難である。

 

ところがこの施設職員と来たら、「私がこのページに書いたことのどこが間違っているのか」と聞いたら、具体的な証拠として「広汎性発達障害」の日本語版Wikipediaを渡してくるようなヤバい人間だった。(※知らない人がいるかもしれないので一応書いておくと、日本語版Wikipediaは情報の正確性でも信頼性でも知の底にある。英語版は大抵充実しており出典等もきちんと引けることが多い。)しかも該当ページには2015年の段階で参考文献や出典が不足している旨のマークが貼られており、実際、本文を支持する参考文献はページ内に一切無かった。それどころか、文脈無く雑に引用されていた図には当ページの修正前の内容を支持する内容が含まれており、しかも出典が明記されていた。もう笑うしか無かった。情報源としての信用性もそうだけど、そもそも自分が貼ったページに書かれている内容の分かっていないなんて……。私はこんな人間に晒し上げられ、そんな人間ですらデカい顔が出来るような人達が集まる界隈のせいで何日も憔悴していたのか?本当に最悪の気分だ。

そして彼の誤った部分をいくら突きつけても全く回答せず話を逸らされるだけだった。

仕方がないので私は方向性を変えた対話を試みて、

 

発達障害者を支援するはずの施設職員が、肝心の当事者を、個人的に指摘するのではなくこのように晒し上げるのはおかしいのではないか?」

 

発達障害は社会からの受容という問題に常に直面している。このような晒し上げを当事者でなく一般人にやったらその人は二度と発達障害を受容してくれないと思うが、自分の手で差別を拡大している事には気付いていないのか?」

 

とか聞いたりしたけど全部無視された。この質問をしたのは該当の施設職員だけではないけどやっぱり無視された。

 

そんな人間が施設の職員というだけで偉い面出来るのである。そして私に嫌がらせをした人間達を見てみれば、偉ぶってるのはこの人に限った話ではなかった。例えば他にも障害当事者の家族だというだけでデカい面できるのである。でも冷静になれば、この人達はただの健常者の一般人である。専門家でもなんでもないのである。

私だって障害の当事者だが、たとえば癌患者だからといって自動的に癌に詳しくなるなんて事は有り得ないし、自分なりに出来るだけ勉強したけれど、結局専門家でもなんでもない。だからこの手のことについてあんな風にふんぞり返るつもりもない。私に分かるのは当事者としての苦しみだけだ。これが施設職員だとか家族だとかになったら、苦しみすら分からない。

一方でろくに勉強してない癖に態度だけやたら偉そうな人達が一杯居て、人を袋叩きにしているのである。そして叩くだけ叩くのが目的で対話をする気もハナっからない。本当にゴミみたいな界隈。

 

 もう埒が明かないので、他の人へも含めて聞く内容を途中から変えた。

 

「どこが間違っているかも指摘せずにこのように人を袋叩きにするのは間違っているのではないか?」と尋ねることにしたのだった。

 

それに彼らが紋切り型で言うのが「貴方はインターネット上に文章を公開したのだから指摘を受けて当たり前」。なるほど。一理ある。でも肝心の指摘とやらを全く具体的に受けておらず寄せられていたのは誹謗中傷や嫌がらせだけなのですが。何度も言うが、何が間違っているのか具体的に言えないのならそれは指摘では無くただの嫌がらせである。説明する時間が無いなら単に放っておくべきである。*13

 

だいたい、「インターネットに発信した以上指摘を受けて当たり前」という価値観というのが私には全く理解できない。世の中には世界の片隅に引きこもって、自分や知り合いのためだけに何かをやっている人はいくらでもいる。

instagramか何かであまり美人ではない人が自撮りを挙げたとして、それを知り合いでもなんでもない人が勝手に持ってきて『こんなブサイクが自撮り上げてるwww』って笑いものにしてるのと何が違うんですか?」とか聞いたりもしたけど、誰も答えてくれなかったよね。本当に何度でも言うけど、具体的な訂正とかを何もしないで単に馬鹿がおかしいこと書いてるって言うのは指摘でもなんでもなくただの嫌がらせだからね。

人を袋叩きにして鬱憤を晴らしているという事実を頑なに認めようとしないんだよね。私みたいに自分の俗悪なところを全部認めればいいのに。

 

私は一人だが、私を叩いた人間は数えきれない。私が一方的に大変なのである。数が圧倒的に違うのにまるで平等な議論をしているかのように装うのは文字通り「数の暴力」と呼ぶしかないだろう。そして議論ですらなく「お前の書いたことはおかしい」以外に何も誰も言ってくれない。

例えば広い会議室か何かで私と他に19人くらいが同時に座り、その19人全員が私に対して一方的に嫌がらせや中傷を重ねるのであれば、どこまで個別の会話自体が1対1で行われ続けたものであろうと、それは普通に言葉による集団リンチやいじめ以外の何物でもないと思うのだが、そんなのことも分からないのだろうか?想像力が働かないのだろうか?こういうのは発達障害を支援したり家族だったりする人間が一番やってはいけない事だと私は思うのだが……。

 

参考までに晒された日を含めてブログのpvの推移でも載せておこう。

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グラフが跳ね上がってるのは当然晒し上げられた当日だが(1849pv)、こんな誰も読んでいないようなサイトをわざわざ掘り当てて晒し上げる行為が「インターネット上に発信した文章への当然の指摘」である等と、いったいどの面下げて言うつもりなのだろうか?しかもたったの2日強で鎮火するとか、彼らはマジで悪者を作り上げて叩いて快楽を得るためだけに焼畑農業のようにこんなことを日頃やっているのだろうか?

 

あ、ちなみに鬼のようなエゴサーチをしながら全く同じやり口とレトリックで人を袋叩きにするのを楽しんでいる界隈って他にもあるんですよ。そう、まさに「お前はインターネット上に文章を発信したのだから指摘を受けて当然」とか言いながら人を数の暴力でボコボコにして黙らせる集団が(悲しいことに私は頭がおかしいから黙らないのだが)。具体的に言うと歴史的kndki界隈とか(実際にやられた経験がある)、最近だとツイッターで女性の人権に関わる活動をされてらっしゃる方々とか(こちらは怖いし食らいたくない)。

「インターネットに発信した情報なのだから指摘を受けて当然」というのもまさに歴史的kndkiの方々が山のように襲いかかってきた時に言われたことでした。界隈で固まって一人を吊るし上げるという行為に決まり決まって何の抵抗も無いんだよね。本当に怖いね。

全員がそうだとは言わないが、一部の「発達障害支援者・発達障害者の家族」の界隈がこの様な体たらくなのは本当に悲しいことである。これでは障害の社会からの受容など到底見込めないだろう。

 

まあ愚痴はやめて、本題に戻ろっか。

 

 

改めて、私は結局のところ何故叩かれたのだろうか?

結局、何故多くの人は「発達障害の定義がおかしい」という所から始めて私のことをあそこまで誹謗するに至ったのだろう?

誹謗中傷をした人間の誰一人として「発達障害」という単語についてろくに知らなかったのに?

実のところ、彼らは本当に「発達障害」の定義がおかしいことについて怒っていたのだろうか?

 

私は、違うと思う。

 

以下に書くことは私が発達障害当事者として生きてきて死ぬほど思っていることであるが、これは発達障害「関係者」の抱える最悪の闇である。

 

これから書くことは関係者が当事者に嫌われている理由の全てである。

 

発達障害当事者と、発達障害関係者の間にある致命的な齟齬について私は伝えたい。

発達障害というものについて考える上でとても大切な話である。というか発達障害の定義がどうとかよりこっちの方がずっと大事に思う。当事者間の話でこの手の話をしたら盛り上がらないことはないというくらい関係者というのは当事者に嫌われているのである。

 

これについてもやはり私の人生の体験を通して書きたいと思う。

 

 

当事者の悩みに取り合わない自称「支援者」たち

我々当事者が「普通の人間に生まれたかった」と思うことは決して少ないことではない。

WISC-IIIで133/116あっても私はこのように生まれたことを不幸だと思っている。

 

近年にディラックという物理学者がいた。彼は色々な業績がありすぎるが、反物質(の一種である陽電子)を初めて考案した人と言えば凄さも分かるのではないだろうか。そんな彼は晩年、妻に「私の人生は失敗だった」と語ったことが逸話として有名である。

物理学者としてのディラックの人生は失敗どころか大成功も大成功である。彼ほどの成功を収められる人間など世界中で50年に何人いるだろうか?それでも彼は自分の人生を失敗だと呼んだ。言うまでもなく「普通の人のように生きられなかった」という意味である。その事の重みはあまりにも大きいだろう。

 

私などをディラックと比べるのはあまりにおこがましく、比べる気すら毛頭ない。だが、歴史に名を残すような偉人であっても「普通の人と同じように生きられない」という事に苦悩する事は多々あるのだ。

 

ならば私達のような一当事者が同じ類の悩みを重く深く抱くことに何の不自然さがあろうか?ディラックのような天才ではなくただの一市民であり、それなのに普通の人のようになれないことにどれほど私達が苦しむだろうか?「この人生で良い」、「この人生が良い」と思えるまでにどれほどの時間と苦悩が必要だろうか?

私の人生などうつ病を除けばまだ楽な方である。それでも死ぬほど苦しんでいる。ならば、私より重い発達障害を抱え、何の取り柄もなく、本当の本当に単に普通の人と同じことが出来ないだけの人達が、「普通でない」事にどれほど苦悩するのだろうか?「普通になりたい」とどれほど強く希求するのだろうか?

 

皮肉なことに、そのような苦しみや願い自体を根本から批難し糾弾するのが「当事者の親」や「関連施設職員」だったりする。

寄り添うのではない。お前の悩み自体が間違っていてあるべきものではないと言葉で殴るのである。

 

自分達では当事者の苦しみなんて1ミリも分からないくせに、健常者として悠々と暮らしているくせに、「自分の子供が不治の障害を持って生まれた」事や、「自分が職場で面倒を見ている子供は一生普通の人間になんてなれない」事それ自体を否定する受け入れたがらないのである。様態を有り体に記述したり、一般人からどう見えるのか書いたり、肝心の当事者が己の苦しみについて嘆いたりすると烈火のごとく怒り出すのだ。

まぁたぶん、親も関係者も自分の人生を否定されたような気分になるのだろう。当事者としては傍迷惑だから勘弁してほしいものである。

 

しかしたとえば、「緑内障は不治の病である」「気をつけて生活しないと視野が欠け、しかも欠けた視野を取り戻すことは二度と出来ない」と書いたところでそれはただの事実の羅列である。それについて緑内障患者が嘆いたりするのも当たり前のことであるし、自分より重度の緑内障患者を見て色々思う所があってそれを書いたとしても、それは何の問題もあることではない。あるわけがない。

ところがこれが発達障害となったら、当事者が普通になれないことを嘆いたり自分より重度の発達障害の人間を見て色々と思う所を書いたりすると「こんなのは間違いだ」とか「お前は発達障害が分かっていない」とか「ヘイトスピーチだ」とか袋叩きにされるわけである。家族や施設従事者に、である。発達障害者を保護すべき人間達が当事者を血祭りに挙げるのである。馬鹿馬鹿しすぎて笑うしか無い。これだから関係者は大嫌いなんだよ。死んでくれ。

これは寄せられた皮肉の一つだが、境界知能のリアルや発達障害の苦しみについて書く私のような人間は「当事者様」とやらなんだそうだ。その言葉を放った人間は子供に発達障害者を持ち、何かの会の会長までやっている。そんな人間が当事者の苦しみを否定する。こんな病的な世界が他にあるのだろうか?

しかも今回は袋叩きにされたのが当事者だからまだ良いが、これがただの発達障害について少し勉強しようとした一般人であったなら、その人は発達障害なんかクソくらえだと思い二度と我々のような存在を受け入れてくれないだろう。面倒だと思ってそもそも一生触れようとしないだろう。関係者の自己満足のために私達当事者は社会の腫れ物扱いだ。発達障害者への差別を家族や支援者が生んでいるのである。

関係者達のせいでどんどん我々の肩身が狭くなっていく。

私は「支援者がこういう風に人を吊るし上げるにする事に、社会的受容の点から見て何の疑問も無いのか」と何人かの人に聞いたが、この点について一言でも回答してくれた人間は本当にゼロだった。知ってた。同じ様な人間をこれまで死ぬほど見てきたから。

 

結局のところ、私のことを叩いた人間たちは「発達障害の定義が違う」なんてことはどうでもよくって、境界知能の生徒たちについて悲観的に書いたから怒ったのだ。もしそうでないとしたら、「発達障害」という言葉の意味を全く知らない人間が「お前は発達障害について何も分かっていない」と怒るなんて馬鹿な事件がどうして起こるのだろうか?

これが自称「支援者」達の最大の闇であり、私が炎上させられた理由であり、私達当事者が支援者を嫌う理由である。

 

 

炎上させられた発達障害当事者が、他の当事者かもしれないあなたに言えること 

最後に一人の当事者から、他の当事者に伝えたい。

彼ら関係者にとって、我々発達障害者というのは、「生きるのが大変な人達を支援して社会貢献にいそしむ立派で素敵な私」という彩りある人生を演出するためだけに使い潰される存在である。自覚的だろうと、無自覚的だろうと。

彼らはあなたに何のまともなアドバイスもしないし、あなたがどんなに真剣に苦しみを打ち明けても彼らは向き合いすらしない。それどころか本気で話し合うなら、あなたは罵声を浴びせられる。

彼らはあなたの「出来ない」に寄り添ってくれない。あなたの「辛い」に寄り添ってくれない。あなたの「普通の人になりたい」を受け入れてくれない。あなたは「この人達に何を相談しても無駄だ」と学習し、従順の仮面をつける事だけを覚えていく。

ところで「何の取り柄もない」というのは健常者ですら多々苦しむ問題であるが、発達障害者であるあなたは余計辛いはずである。何しろ人より出来ないことの方が多いし、取り柄なんてものがあるような人間は発達障害者のごく一握りに過ぎないのだから。そこに彼らは「君にはこんな取り柄がある」と砂場でちょっと綺麗なお城が建てられるくらいのことをさも天才であるかのように大々的に囃し立てる。そして「俺が自信を与えてあげた」と悦に入るわけだ。言われた側は馬鹿にされたような気分にしかならないのだが。

あなたが彼らを必要としているのではない。彼らがあなたを必要としているのである。「この人は可哀相だから私が救ってあげなきゃ」という自己満足を食って生きるゴミのようなメサコンが自称「支援者」や「家族」の本性である。教育業界の人間にも似たような同じことが言える。

あなたは彼らと関わっている限り、決してきちんとした自信を持てるようにはならない。彼らはあなたについて真剣に考えたりなど一切していない。赤子のはいはいを見るのを楽しんでいるだけなのだから。そしてあなたに今日は二歩進んだ、三歩進んだ、みたいな事をあれこれ言うのだろうが、「普通の人」「できる」の地点を見ればそれは果たして何千メートル先だろうか?

彼らにとってあなたはタダの道具である。彼らの薄汚い承認欲求を満たし続けるためだけの……。

数ミリメートル進んだだけで「できる」側に近づいていっているよと、君は「できる」ようになる人間だよと褒め称えることで彼らは今日も自己満足を貪る。どう考えてもあなたは永久に「できない」側なのに……。その事はあなたが一番よく分かっているのに……。そして「私は『できない』」、「普通になりたい」という苦しみについては存在自体をあるべきものではないとして否定するのだ。

このような業界の情勢において、支援者の立場にありながら当事者たちの様々な「できない」と誠実に向かい合い、「コグトレ」等を通して「普通のことを普通に出来るように」を目標に掲げる本書の著者ような人間に巡り会えたならそれは幸せな出会いであろうが、基本的に望めることではない。

 

あなたはこのような邪悪な人々と縁を切るべきであるし、こんなゴミみたいな人達の食い物にされるだけに人生を歩むべきではない。何らかの障害者である時点で普通の人生を歩むことは絶望的だが、それでも遥かにマシである。

 

貴方が発達障害者であり、かつ幸せに暮らしたいのであれば、「偽りの支援者」とは何の関係も持たないのが一番よい。

もちろん場合によっては精神科医に薬をもらう必要もあるだろうし、その他様々な場面で彼らのようなメサコンをどうにかかわして生きていかなければならない。そういう時は、心に仮面をつけるといい。

それだけが今回、運悪く関係者界隈に晒し上げられ袋叩きにされた一連の騒動に際して、私から他の当事者に確信を持って送れる唯一のメッセージである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:「そもそも反省ができず、葛藤すらもてない」の節より

*2:一応「境界知能」は本書内に1箇所だけ説明がある

*3:DSM-IVからDSM-5に改訂された際にローマ数字からアラビア数字にナンバリングが変更されたのは、DSM-5.1、DSM-5.2、……と細かい改訂を行えるようにするためである。DSM-IV-TRが2000年であり、13年もの間改訂が無かったことを考えると、細かく改訂しやすく出来るようにしたのは当然とも言える。

*4:本来は「強度行動障害」と呼ぶ。いやどこからどう見ても自殺企図だろう、と思うかもしれないがこれは専門概念であり一般的な用法等も決まっている。ただし、元の文や私が当時どう感じたのかを出来るだけ残しておきたいため注釈に留める。

*5:行政等においては、障害者手帳障害年金等の等級を決める際にビネー式のような他の検査が未だに用いられることがある。

*6:ちなみに加筆修正する前、現在の一般的な定義とは違うが、私は「IQ85~70」として使うことを明記していた。

*7:

https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/03/s0315-3i.html

https://www.jstage.jst.go.jp/article/stresskagakukenkyu/30/0/30_5/_pdf/-char/ja

 2020年08月18日閲覧

*8:https://cocoromi-cl.jp/knowledge/psychiatry-disease/asd/about-asd/ 2020年8月16日閲覧

*9:実際にはもう少し複雑なのだが本文章の主旨からすればこれくらいの記述が丸い

*10:例えばASD者の典型的な特徴や生き辛さの殆どは、薬の投与等で軽減することがほぼ出来ない。一方でADHD者の抱える悩みの多くはコンサータストラテラの処方で劇的に軽減される。それでさえADHD者もASD者である私達同様、生きづらさを抱えている事には全く変わりはないのだが。

*11:この辺りは精神疾患でも同様である。

*12:私は明確にしていたのだが。

*13:実際私は自分が大学で学んだ専門分野について根本的に何もかも間違った記述を非常に頻繁に目にするがいちいち言及することは全く無い。というか大学で真面目に勉強した人間なら誰でもそうだと思うのだが……。