ブログを作っては消すのやめろ

ゲームの記録とか、稀に読んだものとか用です。

20220424 リメイク版Ibと怪文書の話

プレイした。全エンディング回収しつつ、とりあえず某所2周。

良い意味で変わらないリメイクだった。謎解きや仕掛けの部分は相当変更があるのだけど、ゲーム全体の雰囲気が変わってない。とある場面で設定が補完されていたりしたのは少し意外だった。

リメイク前をプレイしていなくても全く問題ないので、「Ibって聞いたことはあるんだけどやったことないんだよなー」みたいな人は興味があればやってみてほしい。

 

 

さておき個人的な話に移ると、このゲームには勝手な深い思い入れがある。

大昔にこのゲームの考察ページを書いたことがある。全く想定していなかった反響があって、今でもそういうワードで検索すると上の方にヒットする。リメイクされてからまた訪問されることが増えた。作者様には申し訳ない気分だがありがたい。

ただ、承認欲求の底に蓋が出来た今の私にはもうそれは心底どうでもいいことで、それよりずっと大事なことをその考察ページは10年かけて私に思い知らせることになった。私のIbに対する思い入れは本当に身勝手なものだ。

 

インターネットにはたくさんの怪文書が存在する。

誰が書いたのかも分からない、だけど何故かずっと心に残ってしまうような文書。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/oden/dq7nz.htmとかが私にとってはその1つだ。このURLはもう死んでいて、Internet Archiveを使って閲覧するしかない。見れる内の1つはこれ。今調べなおしてみたら、URLを変えてまだ生きているようだ。でも生きているページには追記がされていて、私はまっさらな原版の方が好きだから両方貼っておく。

 

私はインターネット怪文書が大好きだ。だから、自分がそういう怪文書を書くことになるとは夢にも思っていなかった。というか、あの日記自体は当時凄い回数更新していたので、「その内の1つが怪文書と化すとは思ってもいなかった」という気分が正確だ。私自身の心に残っている様々な怪文書を書いた人達もきっとみんな同じ気分なのだと思う。私が書いたのは本当に簡単なことなので比べるのもおこがましいのだけど。

 

どうあれ、あのページの原版を書いたのはもう10年近く前で、まさかこんなに長く人の目に触れることになるとは当時思っていなかった。

書いて1年後には恥ずかしいので消してしまいたい気分になっていた。コメントが来るたびに大昔の自分の文章を読むのがつらかった。凄く恥ずかしい誤記があるので修正もしたかった。書き落とした情報もあった。実際、誤字とは別に話に致命的な間違いがあることに気付いて1年近く非公開にしていた時期があった。それでも修正して再公開してからは、とある理由があって一文字も変更する事はなかった。

 

「この文章は怪文書になってしまったのかもしれない」と修正版を公開してから少し経った頃の私は思った。そうだとしたら、私にはその文章を変更しない義務がある。

数年に一度くらい無性に読みたくなる怪文書というのが私の心には無数に存在する。そう思ったときには大抵インターネットから消えているものだけど、Internet Archiveを使ったりして意地でも原文を探そうとはする。妙に頭に引っかかって意味もなく読み直したくなる2chのコピペとかと同じ感覚だ。

そしてお目当ての怪文書が見つかったとき、原文に大きく改変が加えられていたりすると私はとても悲しくなってしまう。

気持ちは分かる。気持ちは分かるけど、私は文章の内容が知りたかったんじゃなくて、あの怪文書そのものを読みたかったんだ。

何年も頭にこびりついて離れない、冷凍保存されたあの猛烈な熱が見たかったんだ。

だから、怪文書はいつまでもそのままの形で存在しなきゃならないんだ。

 

そういうわけで、あの文章は公開してから本当に一文字も変更しないままでいる。

 

しかし読み直してみると本当にひどいものだ。私の書く文章なんて全部ひどいけど、アレは飛びぬけて本当にひどいものだ。ここまでひどいのにはちょっと理由があるので時効だと思うし話は脱線するけど書いておきたい。

原版を公開した後、話の致命的な欠陥に気付いた私は文章の大幅な修正を余儀なくされた。そして修正する時にある種キメラのような変更を加えなければならなかったのだ。

そもそもあの文章の原版はE. H. ゴンブリッチ『美術の物語』を読み終わった後に「自分は今までなんて愚かな事をしていたんだ。毒を吐くのなんて誰にでも出来る。そんなことより素晴らしい作品を他人にも素晴らしいと伝わるように褒め称える方が遥かに難しく素晴らしい」という熱、ある種の狂気に当てられながら勢いだけで書いたものだった。

ものぐさな私が一旦非公開にしてしまった原版を修正するに至った時には1年の歳月が経過していた。で、1年も前の当時の勢いを今更再現しろと? 無理だ。土台無理だ。私は頭を抱えた。

最終的に私は1年前の熱をシラフでどうにか真似しながら必要な追記をした上で更に土台からぶち抜くような構成変更を行うという泣きたくなる作業をせざるを得なかった。「ああこれは本当にごみくずだ」と思いながら泣く泣く公開ボタンを押したのを今でも覚えている。

だから、あの文章はひどい。本当にひどい。

(でも当時の私は今より文章に対して誠実だった気がする。最近は記録が自己目的化していて不誠実さに自己嫌悪になる。あと、きっかけになった本が西洋の視覚芸術に関するものだったのは本当のマジで偶然だ。)

 

私はマジであの文章をこの世から消滅させたいし、せめて修正したい。

だけどそれは多分やっちゃいけないことなんだと思っている。

私の文章がヘタクソかどうかなんて読む人間には関係ない。

何度も来るような人間は私がどう思ってるかなんて興味ない。

私の意思とは無関係に怪文書になってしまったものを、なんでかよく分からないけど頭に残ってしまったものを、今一度目にするためだけに人々は来ている。

まぁきっと、「こんな文章だったっけ」「今になって見ると面白くないな」とか思われるのだと思う。それでも、「懐かしかったな」とだけ思ってもらえれば、それだけで文章は幸せなんだ。

だから、怪文書はそのままの姿で永遠に存在していなければならない。

別にヘタクソだって良いし、あるいはヘタクソさが怪文書怪文書たらしめているのかもしれない。

 

ありとあらゆる意味であの文章は私の書いたものじゃないし、人の目に触れる文章なんてあれ以外に書けたことがない。たとえるならあれは偶然私のところに落ちてきてそのままなし崩しに所有しているだけの物だ。だからせめて、この手に落ちてきた時のまま一切の形を変えないでいてやることが私に出来る努力であり課せられた義務なのだと思う。

今のところ私はそれを守っているし、破ることは永遠に無いだろう。

 

このインターネットに蔓延る全ての怪文書に幸運を。