いやチェンソーマンの続きを読めよ。私です。画像はまぁ1巻の表紙です。
なんでアドルフに告ぐを読むことになったかと申し上げますと、そのようなご指摘には当たらないかと思いますが、ここのところ不眠症・過眠症で生活習慣が参った状態になっておりまして、チェンソーマンの1-5巻を読んだ日は完全に躁に入っていたのですが、翌日は躁の反動で数時間起きたら脳が死んでバタリ、という有様であります。パラリンピックは断固決行致します。
脳が干上がった状態で机に座りまして、しかし何もしないでいるのも勿体ないかしらん、とKindleライブラリを見ているとありましたありました、こういう時に読むのに丁度良さそうなやつが。そんなわけでさくじつアドルフに告ぐの1-2巻を読んだわけであります。やべえこれ超面白え。
ライブラリに2巻しかありませんでしたもので、てっきり2巻完結だと思っていたのですけれども、実際には5巻ありまして、購入した当時の私が何を考えていたのかわかりかねるのですけれどもなにぶん2巻しか買わなかったようでして、しかし2巻しか無いと勘違いしたのが私が読もうと思った一因でありましたから、このライフハックは使えるのではないかと思い至った次第であります。そしてこれは会食ではなく打ち合わせでございます。
それでまあ、アドルフに告ぐはとりあえず置いといてチェンソーマンを先に読もうとも思ったのですけれども、このアドルフに告ぐというのは非常に人間関係や事実関係が複雑な作品でして、例えるなら浦沢直樹作品くらいに作品内の情報をマジで全部覚えていないと絶対途中で分からなくなるタイプのやつでございまして、そんなわけでこちらを先に読み終わろうと決意しようとしたわけであります。結果として人流は抑制されております。
以下完走した感想。精神力を使い果たしたので短い。短くなくなった。長い。読むな。生産的な活動をしろ人類。
私の幼年時代の話
今思うと私にとって手塚治虫というのは特別な作家にあたる。際立って意識することこそ少ないけれど、小さいころ図書館で手塚治虫の漫画をよく読んでいた。『ルードウィヒ・B』が未完でいきなり終わった時には本当に子供心に泣くかと思った。未完の作品については1巻目にそう書いておいてほしい。(他に読んだ未完作品に『ネオ・ファウスト』があるけど子供時代の私はあまり面白いと思っていなかったようであまり気にしてなかった。)『ルードウィヒ・B』の最後というか最期というかはあまりに衝撃的で「ここで終わりなの!!!!???? 嘘でしょ!!!!????」ってなったのを未だに覚えている。あのシーンで果たして彼は月光を作曲するのだろうかね。いやするんだろうけどね、話の流れはどうなるんだろうね。そういえばシラーという名を知ったのもあの漫画だ。
当時の私は子供だったけれどテレビやらで流れてくる雑学でベートーベンが晩年耳が聞こえなかったというのは知っていたから、『ルードウィヒ・B』を読んだ時には「史実をこういう風にオリジナル設定にして漫画にするんだ」と少し面白く思ったのを覚えている。
それを考えるとこの『アドルフに告ぐ』はそういう路線の集大成というか最高傑作なんだろう。*1
でもちょっと『アドルフに告ぐ』の話をする前に昔のことを思い出したのでせっかくだから少し話を脱線させてほしい。
ひどく捻じくれた因果の果てに登場人物が誰も救われないような陰鬱な話が私は好きなのだが、『ルードウィヒ・B』の、あいつの名前は果たしてなんと言ったかな、ルードウィヒの耳が悪くなる原因も作った物語上の宿敵の役だ、1巻の最後だったろうか、彼が亡き父親の棺桶の前で「どうして父さんは僕をこんな人間にしたのですか あなたさえいなければこんなことにはならなかったろうに」と目に怨みと呪いとやりきれなさと涙をためて言った後で「グギャア」と大きく泣くシーンをいまだに覚えている。あれは人生屈指の好きなシーンに入るかもしれない。「グギャア」と泣くのがどういう意味を持つのかは読んだ人だけ分かってくれればいい。
あのシーンには幼心ながら本当に惹かれた。きっと何度も読み返したのだろう。だから未だにあのシーンだけピンポイントで覚えているのだ━━あの宿敵役の名前は覚えていないというのに。
ああいう救いの無い話が好きで性格が悪いというのはどうも生まれつきのものらしい。最近だとこういうのは感傷マゾとか呼ばれているが単に性格が悪いだけなので性格が悪いと呼んでほしい。というかあんなどうしようもない悲劇を手塚治虫だからって子供にやすやすと読ませるな。性格歪むぞ。いや本当に。まぁ『アドルフに告ぐ』のどうしようもなさとやりきれなさよりは5億倍マシなのだろうが……。(というか想定される作品のテーマからしてあえてやりきれない話にしたのだろうが……。)
そして更に話が脱線するのだが、私は群像劇やショートショートが好きだ。ジョジョの奇妙な冒険も一番好きなのは圧倒的に4部だったりする。今思うとこのあたりは『ブラックジャック』や『火の鳥』に影響を受けているのだと思う。*2この2作品は後味の悪くなる話もあまりにも多い。『ブラックジャック』なら後味の良い話もあるが。
あと『ジャングル大帝』とかは、なんか当時アニマックスでアニメを放映してて、いかにも子供向けアニメですよという感じだったので、最後の方を読んで「こんな作品なの!!!!!!????」と軽くトラウマになった。
手塚治虫、今思うと相当な感傷マゾのバッドエンド至上主義者だったんじゃないのか。本当にアレが日本を代表する漫画家でいいのか。私は良いけど。産めよ増やせよ感傷マゾ作品。貴方の遺した系譜は今、この国に百合の花を咲かせている。
アドルフに告ぐ
私は小さい頃に手塚治虫を随分と読んだなぁと今になると思うのだけれど(逆に言えばそれくらいしか読んだものは無いのだけれど)、むしろこの作品は小さい頃に読まなくて良かったなぁと思う。何しろ日本史や世界史の知識や一般常識が無くて話の内容がまるで分からなっただろう。いや社会常識は今でも無いが。白米の炊き方分からんのだが。
それに、登場人物が多すぎて、関係が濃密すぎて、起こった事実も複雑で、しかもそれは全部背景にあるテーマの問題で、小さい私には読んでも話が理解できなかっただろう。だからこの作品は今読んで良かったのだ。
月並みなことを言うけれど、内容をざっくり言えば、人種差別とか宗教差別とかがいかにくだらなくて、そんな事が原因で起こるいさかいがどんなに無駄な血を流させて誰も救われない悲劇しか産まないかが描かれている。そして悲劇を量産するためにこれでもかというほどに人間関係や出来事が複雑になっている。しかも複数の枝に伸びていく出来事の数々が後でキッチリ全部回収される分、割と一直線に話が進んでいく浦沢直樹作品より読んでいてキツい。むちゃくちゃ面白いけど読む時は精神力が無いとキツいと思う。
しかしうつ病の死んだ頭でもコレを面白いと思えてちゃんと読むことが出来るのだな。あんまり体調が悪いから出来ないとか決めつけるものではないな。読んでみて「無理だ」と思ったならそれは仕方ないが、試しもしないのはよくないことだ。この作品を読んで改めてそう思った。寺生まれってすげえ。
手塚治虫の事を思い出し過ぎていて作品の方はむしろ書くことが少ないのだけれど、救いようの無い話やバッドエンドが大好きな性格の悪い人間には本当に最高の漫画だった。
でも、単に私の性格が悪いから面白いと思ったのではなく、普通に漫画として最高に面白い。ありえないくらいに運命の絡まり方と読者への惹きつけ方が詰め込まれている。手塚治虫ってこんなのも描けたのか。この作品は凄いな。普通に凄い。調べたら発表は1983-1985年。没年は1989年。集大成だ。死ぬ4年前にこんな素晴らしい作品を遺せるのだから偉人は偉人なのである。
作中でのヒトラーのややヒステリックな描かれ方が実際の人物像に基づいてるか分からんのだが、『帰ってきたヒトラー』を読んだ限りアレはこういう人間ではないだろうなぁ。これは流石に漫画の上での脚色だろう。
そういえば『ヒトラー 最期の12日間』も観たいのだった。観よう。いや先にチェンソーマン読め。読むぞ。
ラストについて内容を知っている前提で少し話すと、「うわぁタイトルをそういう回収するのか」と2回思わされたけど、「アドルフ」という名前がドイツで事実上禁止になっている今、この漫画のタイトルと込められたメッセージさえ無意味なものになってしまったと思うと本当に運命の皮肉というものを感じる。
作品が発表された時期、子供にアドルフという名をつけることが既に事実上禁止になっていたかどうかは分からない。それにあくまで「事実上」の禁止であるので、日本で晩年を過ごしていた手塚治虫は知らなかった可能性も高いだろう。それに当時はアドルフ・ヒトラーでない多数のアドルフがまだ生きていただろうから。
しかし結局手塚治虫は『アドルフに告ぐ』をアドルフに告ぐことが出来なかったのだ。これを運命の皮肉と言わずして一体何と呼べば良いのか。
私はたまに、神様というのは私のように性格の悪いやつで、誰も救われない悲劇や後味の悪いだけの話が起こるように運命を操作してるんじゃないかと感じることが多々あるのだけど(神様なんか信じちゃいないが)、この作品を読み終わってその感覚を久しぶりに味合わされた。
私のように性格の悪いやつはすごく気に入る作品だと思うので未読だったら読んでみてほしい。そして普通の漫画としても死ぬほど面白いのでやっぱり読んでみてほしい。
作中に登場する架空の2人のアドルフへ冥福を。