ブログを作っては消すのやめろ

ゲームの記録とか、稀に読んだものとか用です。

20170813 虚無とゲームについて

今日は悪い意味で何もしなかった。

良い意味で何も出来ない日と悪い意味で何も出来ない日がある。

悪い意味で何も出来ない日は後味が悪い。

だらだらとこんな時間まで起きてしまって。そして記録すべきことも特に無い。

ああ。明日はきっと辛い一日になる。

 

起きた。物理的に頭痛がした。物理的に頭痛がしたのは久々のことだ。

脳のブートにかなりかかった。

それから通話して脳調が上がった。積みゲーをやっていた。非常に良いゲームなのだけどやるだけの気力が無い。他のゲームも試してみたがダメだった。布団に入った。戻った。配信があったので見ていた。

眠気はない。眠剤をかなり入れた。眠れるといいけれど。辛い。

 

デレステを走ったのは無ではなかった。それは偉い。それだけは自分を誉めてあげる。

 

今日はゲームについて考えていた。

私をフォローする人は鬱病患者が多い。そして今年は何故か特に大学1年生やそれより年齢の低い方が多い。でもほぼ全員すでに社会的に死んだ。もしくはもうだめになっている。みんな病みすぎだ。この国はどうかしている。

ある悩みをよく聞かれることがある。正直記憶にあるだけで今年だけで全く関係の無い4人が口を揃えて同じことを言うのである。あるいは過去に遡れば私はおそらく10人くらいの人間から同じことを言われているはずなのである。

趣味がない。

そしてそのような状況にある人は、最早本や漫画といったものを享受出来る状態にない。脳が処理出来る状態にない。私だってもうゲームすら出来ないことの多い体なのだからよく分かる。というかそもそも椅子に座れない。そしてそのような人から最も聞かれるのがこれである。

 

「ゲームをやりたいけど何をやればいいのか分からない。何が面白いのかよく分からない」

言われると確かにこれは辛い状況だと思う。そして現代の状況がそれを阻害しているようにも思う。なのでそれについてちょっと書いてみることにする。

 

私は小さい頃からゲームをやって育った。そういう家庭の人間だ。だから現代に阻害された状況でない、ゲームというものが本来どういう体験であるか、というよりあるべきかを知っている。

話が少し逸れるが、お陰でサブカル資本はたまったけど文化資本はとても低い。怠惰に過ごした高校2年生までをとても後悔している。所詮私は親の金で予備校で異世界転生しただけの人間である。

 

とにかくゲームをする事に特に抵抗がないし気分転換と言えばゲームである。ただ最近もう気分転換に古典的なゲームは使えなくなってきた。年齢的に辛いのだ。

本は一時期読書週間がついていた(というより鬱病の治療にすがって病的に読んでいた)けどあの時期に新しい何かを始めようとするのは明らかに誤りだったと今になって分かったので最近では全くしていないのである。というか私はそもそも漫画すらほとんど読まない。

 

冷静に考えると私がゲームらしいゲームをしていたのはせいぜい高校2年生くらいまでの気がする。ちょうど同じ時期に見える。

しかもそれまでやっていたゲーム群も、今にして思えば、結局私が研究したかったことの隣接分野や、あるいは感動を覚える類のことの代用品に過ぎなかったのではないかとかなり思っているところがある。

 

そして更に突き詰めて言えば、高校生頃になってから、幼いころにやっていた頃とは違うものをゲームに求めるようになった。おそらく基本的に4つの要素しか求めていない。報酬系物語性上達性パズル性*1要するにどれもゲームではないのである。そしてそれを統合する、「体験」という概念。あるいは「没頭」とか「鑑賞」とか「感動」とか言い換えてもしれない。こう言うとやはり私が今やっているのはゲームというのは少し変なのかもしれない。

 

報酬系は言わずもがな、クッキークリッカーみたいにちょっとした工夫でひたすら数字がドバドバ増えるゲームである。ただ、今の世界を見ているとこの要素についてはとても不幸だと思う。

レミュオールの錬金術師やゲーム発展途上国の類をやらずして触れる、スマホ市場に粗製乱造されているゴミのようなクッキークリッカーライクに一体何の面白みがあろうか*2

しかし現在の世はゲームといえば主にWindows上で動作するアプリケーションでもコンシューマ機でもなく基本無料のスマホアプリなのである。名作クリッカー系列ですらいくらでもあるのに(出来ればあんな抽象芸術の極地みたいなゲームより古典作品から体験を掴むべきだが、)いずれにせよ貴方はゴミのようなアプリに晒されてどれをやれば良いのかわからないのである。あんなものにしか触れられない環境であれば報酬系という最も根本的なゲームのやり方が分からなくなるのは当たり前である。

また、幸いなことに、報酬系の原典とも言えるドラクエやFFに始まるJPRGの時代の、古いコンシューマの名作が今では公式に復刻されて遊ぶことが出来る。名作を昔の雰囲気のまま遊べるのだ。あまりリメイク作品はオススメしない。ましてやアプリ版は論外だ。ゲームは体験であるべきである。

今度何かオススメのゲーム一覧でも作るべきだろうか。今私がやっているものではなく、オススメフリーゲームコンシューマゲームを。といっても、数は多くない。私はゲームをやることにも怠惰な人間だからである。

 

物語性はゲームに対してゲーム要素を求めているのではなくそれを通して物語を見たいという思いである。私はあまり本を読む習慣がない(そして大学に入って暫くしてつきかけていたころに鬱病で轟沈した)けれどやっている事は正直小説を読んでいるのと体験的にあまり変わるところがないのである。違いは有るけど根本的な願望としては変わらないものだと思う。仕方なく代替しているのだと思う。私がホラーゲームばっかりやってるのは、脳がビックリして目が覚めやすいからだが、それ以上にホラーゲームというのは物語が凝った作品が何故か多いからである。そして早く終わるからである。本当は物語性の高いJRPGも回収したいのだけどあれはいかんせん時間がかかりすぎる。

かまいたちの夜2やSteins; Gateのようなサウンドノベルになると最早ゲーム要素は全くかき消えてただ単に音と絵のついた物語を見ているだけである。R-18になるが沙耶の唄君と彼女と彼女の恋。に至っては完全にサウンドノベル以外の何者でもない。UndertaleはややJRPG要素の混ざった完全なXX時間の物語である。それは貴方が主体となる劇や映画である。

紹介したい物語ゲームは他にも色々あるけど今日は書く時間が無い。眠剤入れてるし。ああ、タオルケットは何よりものオススメなのは言うまでもないこととして。

 

上達性はとにかく上手くなりたいという思いである。もう相手はなんでも良いのである。とにかく上達したい。自分という存在を高めたい。もうこれは全くゲームではないのである。そしてそれを最も体現している存在が昨今音ゲーと言われているジャンルである。

私はゲーセンにコインを3枚入れたその日から数えて僅か180日でCSEMP八段に合格した人間なので少しは言っても良いと思うが、我々はとにかく自分の技能が何らかの形で上達することを求めるのであって別に経験値とか要らんのである。上達とは知識の多寡や判断力の有無、アクションであれば死なないで先にすすめることなどであるが、いずれにしても、スポーツなのである。

2時間かけて苦手曲のBPを40から15に減らしたからと言って特に何の感慨も感じないしハイスコアを更新したところで何も感じないのである。ただ私は上達している。それに無限の時間を費やし練習に没頭する。やはりゲームではない。

最近で言うとRiptale, Duet, 140, 何より私の大好きな大好きなゲーム、いりす症候群!が該当する。是非プレイしてみて欲しい。愛と勇気とかしわもちや、もっと古いとマインスイーパなどもオススメだ。

 

そしてパズル性。言うまでもなくパズルである。頭を振り絞って解くのが楽しいのである。最も原始的なもので言えばマインスイーパ、最近で言うとHexcellsだろう(これはアプリ版に無料で良いものがある。)。

ただしパズルゲームもやはりゴミみたいなゲームで溢れているのでスマホ市場はあまりオススメが出来ない。Two dotsくらいじゃないだろうか。運も絡んでくるが。動くWindows機のある人にはマインスイーパやいりす症候群、Steamが使えるならDuetや140等をオススメする。

 

そして先程書かなかった第五の要素、新規性である。これを打ち立てた瞬間にそのゲームは1個別の次元に消化する。UndertaleがゲームであることをやめUndertaleというジャンルになってしまったように、あるいは東方が、あるいはひぐらしが、あるいはなのはが、あるいはプリキュアが(こいつらアニメだ)、あるいはもっともっと古い全ての者達が。新規性のあるゲームは永久に我々の脳に刻み込まれるのである。これが生まれうるのはゲームというものが体験であること、劇や映画を見ていることと本質的に変わらないことに起因する(ただ脳の容量が低いのはオススメだが文化資本高いものが見れる脳が残っている人はそっちを見て欲しい)。これもまたタグ新設すべきだろうか。

 

そしてこの5つの要素を纏め上げる「体験」「感動」「没入」である。気がついたら6時間か10時間は経っていてくれないと、もしくは完結してくれないとお話にならないのである。だから私はSteamの名作を次から次に食い漁っていく。

 

私がゲームに求めているのはそれである。

だから私は鬱病の人に趣味を尋ねられてもこの5要素、あるいは今思いつかなかった何かしか思い浮かばない。

そしてそういうのを求めているのなら正直言って本を読んだり映画を見たりアニメを観たりすれば良いのである。

小説や絵や音楽やプログラミングができるならそれをすればよいのである。

 

ただ、そういうのに行き詰まった時の息抜きとして、ゲームは確かに昔存在していたはずである。

それがスマホ市場に食い尽くされて、ゲームが本来あるべき姿でなくなってしまったのを見て、私は今非常に残念でならない。

ゲームとはそのようなものではありえないのだ。

 

これかなりディスっぽく見えるかもしれないけど、ディスじゃなくてソシャゲ全体への辛い話なので特定の話へのディスでないということだけわかってほしい。

私はスマホゲームの、主にソーシャルの興亡をずっと見てきた。

正直言って最初の時点で何が面白いのかまるで分からなかった。

あなたのユニットは弱い。強いユニットが欲しかったら10万円払ってください。でも大丈夫!フレンドのユニットはとっても強くて敵を全部ぶち殺してくれますから!ほらほら強いですよ!ほら!

 

……正味、ぶっちゃけ言って、何が面白いのかまるで分からない。それ私が関与する要素はどこにあるんだ。そしてステータスでワンキルされるので上達もパズルも体験も何もかもが有り得ない。それはただ、ストーリーを進めるという作業である。そしてそれならサウンドノベルで良い。

デレステで手が回らないのだけどシノアリスが気になっている。あれはどういうタイプの手合いなのだろうか。上の類のゲームが好きになれなかった人がハマっていたので結構良い出来のはずである。今度やってみたい。というか世界観だけでもみたい。あのデザインや設定はあまりにもヤバ過ぎる。

 

いずれにしてもソシャゲのせいでゲームという体験は大きく歪んでしまった。

本来ゲームとは、幼い私達にはただの快楽と軽い知的パズルを与え、成長してからの私達には文学への萌芽や上達性への渇望をもたらす。そのような存在が、私達にとってのゲームであったはずだ。

私よりn年若い人を見ているだけでもうそういう世界観は通用しなくなってきている。

恐ろしく辛い時代になったものだ。

 

ちなみにこの日記で記録しているゲームがやたらホラーやアクションパズルに集中するのは、それは体験であり、また物語性や上達性やパズル性を非常に満たしてくれ、時として全てを破壊するような新規的な作品にまで出会うことがあるからである。

本当はもうちょっと、成長について語りたかった。ドラクエに代表されるような、自分のキャラが強くなったり、アーマードコアのような、自分の自機を強化していったり、それを組み合わせたり試行錯誤したり、あるいは難敵との戦いにおける本物の戦闘、これは現代では味わえないものである。勝てなかったボスに頭を使って戦略を組んでそれでも五分五分でようやく勝てた時のあの感動。あれはゲーム以外で得ることが大変に難しいはずである。

 

そのような体験が現代多くの方に行き届くことがないという現実が私は非常に残念でならない。

任天堂等が復活していたり、古くはバーチャルコンソールソニーもやっている)などで昔のゲームをプレイアブルにしたのは、こういった時代の影響もあったのかもしれないと思う。

*1:他にもあると思うけどいずれにしてもゲームではないのである。

*2:もしやるとすれば貴方がやるべきなのはCookie Clicker, Clicker Heroes, Time Clickers, Derivative Clicker, Trimps, Tap Titans(スマホ)、せいぜいこの辺りではなかろうか。スマホのみで遊べる唯一の名作がTap Titansであり、あとはせいぜい勇者の塔、インフレーションRPGくらいしか無い。そしてそれ以外はだいたいWindows上でしか動作しない。というかパソコン以外でクリッカーゲームをやるべきではない。Tap Titans除く。あれは完全な名作である。私の親指はタップのしすぎで壊れた